第二子である翼(つばさ)も2歳。
私はもうすぐ39歳で、夫である一樹と恋人関係になるきっかけとなったルリさんと出会ってから10年になる。
「瑠璃社長、義母様がお見えです」
園田リゾートホテル東京の総支配人である椎名亨に声をかけられ、私は少し慌てた。
今から、取引先の真咲隼人が来訪する。
彼はものすごくきっちりした性格をしていて、1分1秒でも時間に遅れるようなら次から一緒に仕事はしてもらえない。
でも、私にとって義母はVIP中のVIP。
働きながら仕事をする私にとって彼女のサポートは欠かせない。
子供の急病の時などもほぼ義母のお世話になっている。
(あと20分あるから大丈夫か)
時計を見ると打ち合わせの時間まで、あと20分ある。
問題は義母の長話をどう切り上げるかだ。
「ありがとう。少し外すわね。真咲社長がお見えになったら応接室に通しといてくれる?」
「了解しました」
真咲隼人は完全サイボーグなのか、時間ぴったりに現れるから早めにくる事はない。
秒刻みのスケジュールで動いて忙しく働いている人だ。
あちらの世界の真咲隼人はルリさんとゆとりある生活をフランスでしていると言うのだから驚くしかない。
どうしたら、あんなワーカホリックな男を変えられるのか謎だ。
義母はホテル内のカフェでお茶をしていた。
本日は一目でお高いと分かる素敵なワンピース姿だ。
私を見つけるなり、微笑みながら軽く手を振ってくる。
「お義母様、お待たせしました」
「ふふっ、待ってないわ。そんなに急がなくて良いのよ」
優しく微笑んでくれるが、私は非常に急いでいた。
義母はおそらく近くに用事があったので、立ち寄っただけ。
今日は着物ではないから、お茶や華道のお稽古ではないだろう。
新しい習い事でも始めた話をしに来たんだろうか。
それだと、話は長くなりそうで心配だ。
「実は、今日、白玉点滴を打ってきたのよ」
私は義母の言葉に頭が真っ白になる。
「⋯⋯て、点滴? お義母様どこか悪いのですか? すみません、子育てをほぼ丸投げのような真似をしてしまって」
私は思わず深く頭を下げた。
義母は高齢だ。それなのに、本来なら自分たちでやるべき子育てをしている。
楽しみにしていた観劇も直前にキャンセルして、急な発熱をした翼を保育園に迎えに行ってくれた事もあった。
義母が頭の上でクスクス笑っている。
悲し過ぎて笑いが出てしまっているのだろうか。
「私は至って健康よ。ねえ、見て、私の肌綺麗になったと思わない?」
予想外のことを言われて私は義母の肌をまじまじと見る。
(普段との違いが分からない⋯⋯)
「健康そうに見えます」
「もう、瑠璃さんってば、本当に美容に疎いわね。白玉点滴っていうのは、美容点滴よ。美白、シミ・そばかす予防に効果があるの!」
「たかが、美白の為に点滴を?」
思わず出てしまった私の言葉に義母は肩をすくめた。
「アンチエイジングにも効果があるのよ。瑠璃さんは確かに綺麗だけど、もうアラフォーよ。少しは美容に興味を持った方が良いわ。ここからガタっとくるわよ」
「⋯⋯お義母様の言う通りかもしれません」
私はルリさんとの出会いで一時的に美容に興味を持った。
しかし、それは長くは続かなかった。
結婚してホテルに就職し仕事が楽しくなると、自分の身だしなみは最低限になった。
毎日自分の顔を見ていると分からないが、私は老けたのだろうか。
二人も子供を産んでいるから、当然体の変化は感じていた。
よく考えれば一樹は若い女性に囲まれる職場。
相対的に比較して私に対して老いたと感じているかもしれない。
「はい、コレ、差し入れよ」
突然出された仰々しい箱に入っていたのは櫛だった。
「ありがとうございます。これは、何らかの魔法の櫛でしょうか?」
私の質問に義母がまた笑う。
「使ってみて! 髪がツヤツヤになるから」
「ありがとうございます。使ってみます」
キラキラした櫛は何だか高級そうだ。
櫛など何でも同じと思っている私とは違う義母の価値観は勉強になる。
実際、女子会プランに使っている客室では、最新のドライヤーやを取り入れたりしていた。
10万円以上するドライヤー、5千円近くする櫛。
アメニティーも当然ハイブランド。
私がどうでも良いと思っている部分は、お金を持っている富裕層や美容女子にとっては重要なホテルを選ぶポイントだ。
「それにしても、瑠璃さんは優秀ね」
櫛を眺めていると、今度は突然称賛される。
「女の子も男の子も産んだじゃない。翼くんは良い子だしきっと園田リゾートホテルズの良い跡取りになるわ」
「そうなるといいですね」
名前から察するように、「翼」という名前は一樹がつけた。
親がパイロットだから、空を夢見るパイロットになるんじゃないかと考え彼が付けた名前。
義母が跡取りになる事を孫に期待するのは当たり前だし、私は「翼」が将来何をやりたくても応援する。
私も研究者になる事を望まれたが、CAになり、今はホテル経営をしている。
将来なんて誰にも分からないし、本人の自由。
そんな反論をしたいけれど、話が長くなると打ち合わせに響くので取り敢えず合わせておく。
カフェの入り口で椎名亨がチラチラと私をみている。
時計を見ると真咲隼人との待ち合わせの5分前だ。
そろそろ切り上げた方が良いかもしれない。
「何だか忙しそうね。今日はここで失礼するわ。子供たちのお迎えは任せて。今日は一樹も帰ってくるんでしょ。子供たちはうちに泊まらせるから久しぶりに夫婦水入らずで過ごしたら」
私の様子を見て気を遣ってくれた義母がからの言葉に頭を下げる。
「色々お気遣いありがとうございます」
私は立ち上がり打ち合わせの場へと急いだ。
ちょうど会議室の前に到着した時に、真咲隼人とばったり会う。
時間を見ると待ち合わせの15時ぴったりだ。
「久しぶりだね。園田瑠璃」
相変わらず歳を取らない王子のようなルックス。
彼は私以上にワーカホリックに見えるが、白玉点滴でもしているのだろうか。
「真咲社長、今日はお時間頂きありがとうございます」
私の言葉に彼はにっこりと微笑む。
基本、彼はメディアにいるときは物腰柔らかい王子様だが、私の前では辛口で厳しい。
どうやら、今日は優しい王子様モードで私に接してくれるようだ。