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2. ラディッシュ

2. ラディッシュ




 私の名前はアイリーン=アドネス、22歳。魔法との出会いは、まだ物心つくかつかないかの幼い頃だった。埃っぽい書棚で見つけた一冊の古い物語集。そこに描かれていたきらめく魔法の世界に私は一瞬で心を奪われた。いつか私もあの物語のように、立派な魔法使いになって世界中を旅したい――それが、当時の私の全てだった。


 その夢を叶えるため、私は必死で身を削るような思いで勉強した。平民の私が王立学院に入学するなど、前代未聞のことだと周りは言った。それでも夜遅くまで蝋燭の灯りの下で魔法書と向き合い、何度も失敗を繰り返しながら魔力の制御を練習した。そして3年前、私の努力が認められ、ついにその難関を突破した瞬間は今でも鮮明に覚えている。私の人生における大きな転換点だった。


 そして、王立学院の入学式の日。広大な敷地にそびえ立つ白亜の校舎を前に、少しの緊張と大きな期待を胸に抱いていた私はそこで運命的な出会いをした。それが、このフローレンス王国第一王女クリスティーナ様との出会いだった。


 彼女は当時、私より3歳年下の16歳だったけれど、その存在感は群を抜いていた。透き通るような肌、太陽のような金色の髪、そして何よりも、まるで光を閉じ込めたかのような、優しく可憐な笑顔。彼女の周りには常に明るい空気が漂い、自然と人が集まってきた。


 まさにこの国の希望であり、みんなの憧れの存在だった。そんな雲の上の存在である彼女とまさか友人になれるなんて。それは、私にとって何物にも代えがたい、誇らしくそして光栄な出来事だった。


 クリスティーナ様と友人になってからは、私の目標はいつの間にか変わっていた。世界中を旅するという漠然とした夢は、彼女のために力を尽くしたい、彼女の役に立ちたいという、より具体的で強い願望へと形を変えていった。私はその一心で、更に魔法の腕を磨き知識を深めた。


 その結果、私は平民の出であるにも関わらず、生まれ持った高い魔力量と弛まぬ努力によって優秀な成績を収め、王立学院を首席で卒業することができた。そして卒業後すぐに宮廷魔法士として王宮に仕えることになったのだ。あの時の喜びは今でも胸に残っている。これで、念願だったクリスティーナ様の側で、もっと彼女の力になれる――そう思っていた。


 それなのに。


 結局、私はたった一日で全てを失い、ただの平民に戻ってしまった。


「はぁ……これから、どうしようかしら……」


 王宮の石畳を踏みしめ、門を後にした瞬間から私はこの国から追放されたも同然だった。行くあてもなく、ただひたすらに私は歩き続けた。王都の賑わいは徐々に遠ざかり、道の脇に並ぶ建物は背が低く間隔が広がっていく。緑が増え、空が広く感じられるようになるにつれて、自分の置かれた状況の絶望感が、じわじわと現実味を帯びてきた。


 この国では、魔法使い、特に王宮に仕える者は優遇される。だがその肩書きが無くなった今、私には本当に何も残らなかった。ポケットには、ほんのわずかな小銭があるだけ。頼る人もいない。今朝いきなりクビになったのだから、実家に連絡することも、帰ることもできない。あるのは、この着の身着のままの自分だけ。どこへ行けばいいのかも分からない。途方に暮れて、ただ足任せに歩き続けた。足の裏が痛むけれど、立ち止まる勇気もなかった。



 ◇◇◇



 一体どれくらい歩いてきたのだろうか。時間感覚は完全に麻れていた。いつの間にか、私はどこかの森の中まで迷い込んでいたらしい。木々の枝葉が頭上を覆い、足元には落ち葉が積もっている。王都近くの整備された森とは違い、ここはもっと深く、もっと野生の気配が濃厚だった。


 太陽の光は弱まり、木々の間からは茜色に染まり始めた空が見え隠れする。もう日が落ち始めているのだ。森の奥深くへと誘い込まれるように足を進めるうちに、私の心は限界を迎えていた。


 「……なんで……どうしてよ……うぅ……」


 この森の中ならきっと誰にも見られないだろう。そう思って、私はその場にしゃがみ込み、顔を手で覆った。堪えていたものが堰を切ったように溢れ出す。


 悔しくて、悲しくて、情けなくて……涙が止まらなかった。


 声にならない嗚咽が喉から漏れる。私は一体、何のためにこれまで頑張ってきたのだろう。全て無駄だったのか。


 どれくらいそうして泣いていたのか分からない。ただ、肩が震え、息が苦しくなるまで泣き続けた。すると、急に目の前に影ができたのを感じた。光が遮られ、辺りが少し暗くなる。誰か来たのだろうか?まさか、こんな森の中に?


 慌てて顔を上げ涙を拭おうとした、その時。明るい声が聞こえてきた。


「どうしたのお姉さん?そんな収穫3日後のラディッシュみたいな顔しちゃって?」


 収穫3日後のラディッシュ……?それって、一体どんな顔なんだろう。シワシワで、少し萎びて、土気色みたいな?あまりに突飛な例えに、思わずツッコミそうになるのを寸前で抑え込んだ。


 声の主の方へと視線を向けると、そこに立っていたのは、オレンジ色の髪を二つのおさげにした少女だった。その小さな背中には、薪を背負っている。ああ、なるほど農村の子だろうか。薪を集めていたのかもしれない。


 というか……ちょっと待って!冷静に考えてみて、初対面なのに、ずいぶんと失礼な言い方じゃないこの子!?呆然としている私を見て、少女は気にする様子もなく私の横にストンと腰を下ろした。


 そしてごく自然な動作で、スッと手を差し伸べてくる。これは一体何だろう?握手かしら?


 意味が分からなかったけれど、とりあえず、差し出された小さな手を握ってみる。すると次の瞬間――


 ギューッ!


 思わず呻き声が漏れた。小さな手からは想像もつかないほどの力が込められ私の手が握り潰されそうになる。痛い!めちゃくちゃ痛いんですけど!?あまりの力の強さに、私は慌ててその手を振りほどいた。


「痛い、なにするの!?」


「そのくらいで痛がるなんて、お姉さん弱虫だね?こんなんじゃすぐ倒れちゃうよ?だから私が鍛えてあげる!」


「はい?何を言ってるの?あなた誰よ?それに、何勝手に話を進めてるの?」


「あ、自己紹介まだだったよね?私はエイミーっていうの!よろしくね!それでね、私がお姉さんを雇ってあげようと思って!」


 え、何この子?頭大丈夫かな?突然現れて、人の事をラディッシュに例え、怪力で手を握り潰しそうになり、そして私を雇う?鍛える?意味が分からない。まるで目の前の現実が、急におかしな物語の世界に変わってしまったようだった。魔物でも倒すつもりなのだろうか?


 私の混乱を見透かしたように、エイミーは私の宮廷魔法士の制服と小さな荷物を見ながら言った。


「その格好って宮廷魔法士の制服でしょ?それにその荷物。お姉さん弱いから、宮廷魔法士クビになったんじゃないの?基本、宮廷魔法士は王都の外には出れないはずだしね!」


「!?……違う!弱いからじゃない……!」


 私の全身に電流が走ったような衝撃だった。「弱いからクビになった」という言葉が、私のプライドを刺激した。確かに今の私は宮廷魔法士をクビになった。でも、私は弱くなんかない。必死で努力して、首席で卒業するほどの実力はあるのだ。私の動揺を見てか、エイミーは再び肩をすくめた。


「ふ~ん、まあいいや。理由はともかく困ってるんでしょ?」


 彼女のまっすぐな瞳に見つめられ私は何も言えなくなった。彼女の言う通りだ。理由なんて、今の私にはどうでもいいことなのかもしれない。


「じゃあさ、もしよかったら私の村に来ない?そこで私の家で住み込みで働かせてあげるよ。もちろんタダではないけどね?どうする?」


 正直、迷った。この子の突飛な言動は、とても信用できる相手だとは思えなかった。しかし、このまま森の中で夜を迎えたら、本当に野垂れ死にしてしまうかもしれない。食べるものもない寝る場所もない。そして、頼れる人もいない。


 目の前に差し出されたこの手は、あまりにも唐突で怪しすぎたけれど、他に掴むものは何もなかった。私は、まるで溺れる者が藁にもすがる思いで彼女にお願いすることにした。


「……お願いします。連れて行ってください」


 私の言葉に、エイミーは「やったー!」と小さなガッツポーズをした。こうして私は、エイミーと名乗る謎の少女に連れられ、彼女の住む村へと向かっていった。彼女は驚くほど速い足で森の中を進んでいく。私も必死でその後をついていった。


 しばらく歩くと、木々の切れ間から、こぢんまりとした集落が見えてきた。それは、王都フローレンスからずっと北に行ったところにある山奥の小さな農村だった。土壁の家々が寄り集まり、その周りには畑が広がっている。


 素朴だけれど、落ち着いた雰囲気を感じさせる場所だった。名前は『ピースフル』らしい。聞いたことない村なんだけど……とは言っても、宮廷魔法士になってからは、私も基本的には王宮から外に出ることはなかったから、私が知らなかっただけなのかもしれないけれど。


 村に着くと、エイミーは早速私を村の村長さんのところに連れて行ってくれた。村長さんは先ほどのエイミーとは対照的に、穏やかで優しそうな白髪の老人だった。エイミーが私が困っていること、そして自分の家に連れてきた経緯を説明すると、村長さんは少し驚いた顔をしたが、すぐに柔らかな笑顔で私を受け入れてくれた。しかも、私がこの村で暮らしていけるように、畑仕事や家畜の世話などを教えてくれると言ってくれたのだ。


 その言葉を聞いた時、私の胸に温かいものが込み上げてきた。本当にありがたかった。さっき会ったばかりの、しかも素性の分からない私にそこまで親切にしてくれるなんて。この村の人たちは、きっと皆、良い人ばかりなのだろう。


 ……地位なんかで差別されて、あんなにも悔しくて悲しい思いをするくらいなら。あの冷たい王宮から離れて、この穏やかな村でひっそりと静かに暮らしていくのも悪くないのかもしれない。


 疲弊しきった心に、小さな希望の光が灯ったのを感じながら、私はエイミーと村長さんの顔を見た。

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