誰もいない河川敷に、線香花火が弾ける音だけが響いている。俺と美穂は風によって線香花火が消えないように、膝を突き合わせてしゃがみ込んでいた。
「曜くん」
「ん」
「綺麗ですね」
「うん」
昆虫が光に集まるのは、正確には光ではなく紫外線に集まっているというのは周知の事実である。線香花火の火花に紫外線が含まれているかどうかは知らないが、あるいは正体がジガバチであるのは関係なく、彼女自身が好んでいるのだろうか。ぼんやりとした視線を線香花火に向けていた。
「このまま溶けていきそうじゃないですか」
「何が」
「こう……体とか、魂とか」
「遠慮しとく」
「自殺のお誘いじゃないですよ!?」
「そこまでは思ってなかったけど」
美穂はぷんすこと自分で口に出して、やがて息すらも吐き出した。勢いよく。その勢いは吐き出したと言うよりも、吹き出したというほうが正確か。
「……不思議ですねぇ」
「何が」
「普段の生活を思い浮かべていたんです」
ざわめきに満ちた教室。紙を叩くペンの音。窓の外から聞こえてくる蝉の声や、体育に勤しむ学生の声。自分は黒板に書かれる文字を必死に追って、もしかすると昼休みのあとの眠気に抗いながら、勉強をしていく。
そんな生活を忘れたように、今は。
月明かりと手に持った線香花火だけが光を放つ、人工の自然に囲まれた河川敷にて、現実から切り離されたように二人でいる。眺めていると意識が吸い込まれる。弾け続ける線香花火に。視界が霞んで、体と世界の輪郭が曖昧になる。
……そんな感じがするんです。
などと聞いているこっちが小っ恥ずかしくなるような、なるほど文学少女かと頷いてしまう表現を美穂はした。
「遅めの厨二病?」
「……そうかもしれません」
「否定しないんだね」
「否定はできないですから」
「でもいいと思うよ」
恥ずかしそうに俯きながら、しかし俺が肯定すると、触角を揺らして顔を上げる。その際に複眼に反射している線香花火の光が、複眼を構成している個眼の一つ一つに分割されていることに気がついた。
「あ、落ちた」
「私の勝ちです」
「りんご飴とか言ってたやつに負けるのか」
「それを持ち出すのは反則じゃないですか?」
自分のものは火を付けてすぐに落ちてしまったので、とくに何も汚れていない膝を払って立ち上がる。やがて美穂の線香花火も落ちてしまった。
火を付ける前に勝負の話はしていなかったのだが、ふと頭をりんご飴がよぎったために口に出したところ、彼女は黒歴史を指摘された元厨二病患者のように、弱々しくも強い意志を感じる言葉を紡ぐ。
「普段、手玉に取られてばかりだから。この時期が近づくたびに擦り続けてみようかな。りんご飴りんご飴って」
「つまりこの先も関係を続けていこうってことですか」
「チッ」
「舌打ち!?」
墓穴を掘った。
決して化け物だから関係を持ちたくないというわけではないのだが、それはそれとして、化け物と一生涯付き合いたいか、と聞かれると……まぁ、普通の男子高校生としては頷きづらいものだ。
もはや諦めかけているものの、彼女だって欲しいし。間違ってはいけないのが「彼女」が欲しいのであって、「食べ物」とか「ペット」とか「ゴミ」が欲しいのではないのである。
「冗談だよ」
「それにしては鋭い舌打ちでしたけど」
「実は練習していてね」
「珍しいですね」
その後も袋の中にある線香花火が終わるまで勝負を続けたが、一体何が悪かったのだろうか。まさかの一勝もできずに終了。昆虫にマウントを取られる人間、という非常に屈辱的な光景を生み出すに至った。
河川敷を二人並んで出る。
祭りの喧騒は遠い。
提灯の光が霞んでいた。
「……いやぁ、楽しかったですね」
りんご飴の棒を――河川敷に来る道中で彼女が食べていたのだが、捨てるところも見つからず、いまだに持っているのだ――弄びながら美穂が呟く。俺は現在の心情をそのまま言葉にした。
「うん」
「やけに素直」
「別に強がる場面でもないし」
こちらは一切の着色なく天然由来の感想を伝えたのだけれども、どうにも彼女には納得がいかないらしく、首を傾げて、
「
「ん」
「あの人が言っていたんですよ」
化野はツンデレだから。あいつが言うことは全部逆なのよ。素直に何かを言うことがあったら、嘘か明日の異常気象を疑うことね。
「って」
「俺のこと何だと思ってんの?」
「明日は大雨ですかね」
「違うと思うけどね」
思い切りため息をついた。
風評被害とはこういうことか。
「生まれてこの方嘘ついたことないからさ」
「私のことどう思ってます?」
「ジガバチ」
「あはは、やっぱり嘘つきじゃないですか」
「………………ふぅん」
楽しそうに笑っている美穂。特殊な訓練を受けたことがあるわけでもなければ、人間観察に自信があるわけでもないが、そんな自分が読み取った結果では、彼女は嘘をついているとは思えなかった。
やはり前々から思っていたことは正しいらしい。化け物連中は自分自身の容姿を認識していない。あるいは、彼女らは正しく人間で、間違っているのはこちらのほうなのか。
流れの速い――速すぎると言ってもいいほどに流れていく雲を眺めながら、俺は漠然と化け物のことについて考えていた。
正体。
異常。
懐疑。
不満。
回顧。
納得。
忘却。
「どうしました?」
急に立ち止まったこちらに違和感を抱いたらしい美穂が、訝しげにこちらを振り返る。夏ゆえにねとりとした空気を孕んだ浴衣が、湿度を感じさせないほど軽やかに膨らんだ。俺は自分の動きに理由が存在しないことに愕然として、呆然と首を傾げる。
「……どうしたんだろうね」
「え?」
「いや、なんで止まったんだろうって」
数秒前の自分の目的すらも忘れてしまうとは、もしかすると若年性アルツハイマーの初期症状だったりするのだろうか。ないだろうけど。
数メートル先で待っている美穂の下へ、足早に行く。横に並んで帰宅。二人の家の方向は学校からだったら違うものの、祭りに来ているという条件を付ければ、そこそこ同じだった。
◇
「ちょっとお願いがあるんだけど」
「なぁにお兄ちゃん」
「しばらく隠れてて」
「隠れてて?」
俺は焦っていた。
まるで浮気のバレそうな人間のように、実現させたくない未来と実現してしまいそうな現在が頭の中でぶつかり合って、動悸が止まらない。
「……あ、もしかして女の子?」
今日も元気に不定形の闇系女子――女子と表現していいかは古からの疑問である――な妹は、全身から生やした触手らしきものを器用に操って、階段の下にある物置に潜り込んでいく。
こちらとしては普通に部屋に戻ってくれれば大丈夫だったのだが、俺の言葉がよほど焦りに満ちていたのか、彼女はもっとも近い隠れ場所に身を潜めた。つまりは埃が結構溜まっている物置に。
「違う」
妹の疑問には自信をもって「否」を叩きつけた。
「本当に?」
「本当本当。じゃあ封印されててね」
「またー?」
化け物とはいえ埃が溜まっているような場所に押し込めるのは申し訳ない。それが一つ屋根の下で暮らす家族ならなおさら。しかし俺も焦りを強要される状況にいるので、痛む胸を無視しながら扉を閉めた。
こんこんこん。
「曜くーん? 入ってええ?」
「どうぞ」
間に合った。
ほっと胸をなでおろし、扉の曇りガラスの向こうに立つ影の疑問に答える。
「お邪魔するなぁ」
「どうぞ」
「急に雨が降ってくるなんて不幸やな」
「家の近くだったからいいけどね」
黒いワンピースを纏った塵。
もとい