目を開けると自分の腹に肉塊が跨っていた。ずいぶんと興奮しているようで鼻息が荒い。肉塊に鼻息というか鼻が存在するのかどうかは難しいところだが、一応生物として活動している以上あるのだろう。
人間でいうところの目の部分には、おそらく粘度の高い液体によるものであろう、爛々とした光が宿っていた。まるでショーウィンドウのトランペットを眺める黒人少年のように。その光を見ていると、自分の運命が決まりきっているように思われた。つまり初体験を化け物で済ませるという。
およそ普通の男子高校生に耐えられることではない。
本当に勘弁してくれないだろうか。
「おはよう」
「おはようございます」
「今って何時?」
「朝の五時くらいですね」
「ちょっと起こすには早すぎない?」
朝起こしに来てくれる幼馴染ですら少しは自重するぞ。しかも目覚めて早々に目撃するのが肉塊とか、まともな精神を持っていたら二度目の眠りにつく。再び起き上がるかどうかは時の運だ。
肉塊は首を傾げる。声だけ可愛ければなんでも許されると勘違いしているのではないだろうか。別に菜々花は俺と一つ屋根の下に住んでいるというわけでもないし、そもそも合鍵とかも渡していない。純度百パーセントの犯罪である。
「起こすつもりはなかったんですよ」
彼女は若干不服そうに言った。
しかしこの状況でその発言は認められない。
なぜなら起こそうとする以外の目的が感じられないからだ。
「じゃあなにをするつもりだったの」
「いったん夫婦の契りを結ぼうかなって」
「笑止千万」
早朝に起こす以上に邪悪な目的が存在したようだ。できる限り早く祓われてくれねぇかな。
しかも専門家でもない限り一見して性別を読み取れない存在が――肉塊の専門家がいるかどうかは別にして――、まさか〝夫婦の契り〟など。一般的な男の子である俺には早すぎる。具体的には百年くらい。百年あっても駄目か。
「あとさ」
「はい」
「なんでいるの」
非常に邪悪な許されざる目的を持っていたことが判明したわけだが、それはそれとして、根本的な問題が存在する。どうして彼女が家にいるのか。
「鍵穴を〝ちょちょい〟と」
「罪を重ねていくねぇ」
「同じ時も重ねていきましょうね」
「檻の中で? 勘弁して」
思い切りため息を付くと、「重い」と一刀両断して彼女を腹の上から追いやった。女の子に重いとか私以外だったら許されていませんよ、などとほざいている肉塊がいるが、俺以外だったら独房にぶち込まれているはずの彼女が言うと説得力が違う。
スマホを開いてしばし苦悩。
通報するか、しないか。
だいぶ通報するほうに気持ちが傾いているが、いったいどうしようか。
「なにを考えているんですか?」
「菜々花の未来をどうしようかなと」
「結婚ってことですか? 式はあげても、あげなくてもいいですよ」
「じゃあ警察さんにホシをあげてもらおうかな」
はぁ、と。
まったく、どうして普通とはかけ離れた生活を送ることになっているんだ、とじんじんと鈍く痛む額を押さえて、本日何度目か――それどころか彼女と出会って何度したか数え切れないほど、何度も何度もしたため息をついた。
「お疲れのようですね。新婚さんごっこしますか?」
「思考回路絡まりすぎだろ。ちょっとは整理しろよ」
「ご飯にします? お風呂にします? それとも……」
「すみません扉間違えました。もう二度と来ませんね」
「これは偶然の出会いだったのかしら、それとも……必然の――」
「無敵かよ」
少々言葉が荒くなるのも無理はない。なにを言っても〝そっち〟の方向に話を持っていこうとするのだ。肉塊の分際で頭の回転が早い。
そんな感じで菜々花の処遇をどうするか考えていると、いったい何を思いついたか、彼女は妖しい雰囲気を醸し出しながら近づいてくる。まるでレスリングの選手のように。
ぴとっ。
「ふふん、照れちゃいますかぁ?」
なに考えてんだこいつ。
菜々花は抱きついてきた。謎の液体を常に身に纏っている系女子だから、先程の「ぴとっ」という擬音を詳細に描写すると「びちょっ」だ。気持ち悪い。全身の毛穴という毛穴が開いて拒否反応を垂れ流し始める。
「……うーん」
「そりゃこんな美少女にくっつかれたら興奮しちゃいますよねぇ。今にも火が出そうなほど赤く――なってない!?」
彼女は化け物である。
化け物に欲情するほど人間を辞めているつもりはない。
ゆえに素面。
いや、引っ付かれているのは早急になんとかしてほしいが。
「くうぅぅ、悔しいです!」
「挑戦は一日一回まで。出口はあっちだよ」
「? まだ寝ぼけてるんですか? 窓を指さしてますよ」
「だから窓が出口なんだって」
「ここ二階ですよ!?」
なにかの間違いで人為的に天寿を全うしてくれないかな、と図ったが駄目だったようだ。当たり前か。さすがに肉塊でも生存本能はあるらしい。生存本能と言うよりも常識かもしれないけど。
異性に抱きついているのに、こちらが興奮していないという状況。それに彼女は不満だと言う。触手を荒ぶらせて。
「――あっ、そうです!」
また悪辣でくだらないことを思いついたようだ。
「さすがの化野さんでも、キスをしたら正気じゃいられませんよね……」
「たしかに正気じゃいられない。SAN値が無限を突破してゼロになってしまう」
「んー…………」
「やめろやめろ近づけるな近づくなまだ死にたくない」
ゆったりと近づいてくる肉塊。
まるで唇を尖らせるように、肉の一部が盛り上がっている。
ちょうど「それ」が俺の唇に近づいて……ファーストキスが……。
「――ふむ、夢か」
目を開けるとベッドから落ちていた。
しかし落下の衝撃で目覚めたのではなさそう。
夢の中の頭痛は精神的なものではなく物理的なものだったようだ。
それにしても悪夢だった。
本当に悪夢だった。
もう二度と見たくない。
俺は額を擦りながら立ち上がって、やはり変なところでも捻ってしまったのか、痛みが残る首に違和感を覚えた。カーテンから光が差し込んでいる。聞こえてくるのは鳥の声と車の音。朝の五時とかではなく、普通に朝だ。
「疲れてるのかな……」
そして働きの悪い頭に血液が流れ始めた頃、ようやく思い出した。
今日から二学期が始まる。
最悪の始まりだ。