自分のクラスの出し物の準備は終了してしまったので、非常に暇をしていた俺は校内を歩き回り、やがて図書室の前で看板に絵を描いていたジガバチを発見した。めちゃくちゃ下手だ。恐ろしいほどに下手だった。普通に逃げようとしたが捕まり、その昆虫と向かい合って座る。
「曜君」
尋ねられたのは、とある存在についての質問だった。
部活動にはごくごく稀にピンチヒッターというものが登場する。例えば三年生の引退試合にチームメンバーが足りないときに、その部活動に所属はしていないが、ある程度活躍できそうな人間を大会に出すとか。他にも考えればきりがないが、とりあえずはピンチヒッターというものが存在するのだ。
さて、ここで視点を変えよう。
部活動。
運動部と文化部。
はたしてピンチヒッターが登場するのはどちらでしょう?
「答えは文化部なんでしょ」
「はい。かくいう私がピンチヒッターです」
私の全身から立ち上る「文芸部ぱわー」が本物の文芸部員達の脳を焼いてしまったようですね……自分が恐ろしいです……などと訳のわからないことを抜かしている逆瀬川美穂は、文庫本で己の口元を隠すようにこちらを眺めていた。こころなしかドヤ顔をしているように見える。
「文芸部の代打ねぇ」
「といっても部誌に寄稿しただけですが」
「だいぶ大きくないかねそれは」
以前に彼女と公園で昼寝をした――忌々しい――記憶によると、美穂は文芸部に入っていない。どうにもこの学校の文芸部は、文芸部と名乗っているくせに、なぜか編み物をしていたらしいのだ。
小説だとか俳句だとかを作りたかったのであろう彼女は、残念ながら部活動には入らずに、俺と同じく帰宅部をしていたはずが……。
「あ、見ないでください」
「なになに……〝気がつくと私は壁際に追い詰められており、横を見ると彼の、運動はあまりしていないのだろうが男らしい手に囲まれて、正面には彼の眩しいまでの顔が鎮座していた。私は思わず高鳴る心臓の高鳴りを体の奥に聞き、瞬間、近づいてくる彼の顔――特にその瑞々しい唇に意識が奪われ……〟」
「あああああああああああああああああ!!!!」
ぺちん、と。
まるで非力な少女がメンコを地面に叩きつけたような音とともに、美穂の弱々しい脚が振るわれた。俺は彼女の脚を頬に貼り付けたまま、「ふー……ふー……」と獣のごとき唸り声を上げる美穂を見やる。
「この恨み晴らさでおくべきか」
「ごめんて」
「曜君はわかっていません。えぇ全然わかっていませんとも。小説の作者が自分の作品を目の前で朗読されるなんて、軽く死ねるほどの生き地獄なんですよ……しかも、よりにもよって恋愛小説ですよ? この責任はどう取るおつもりなんですか!」
「ごめん」
図書室においてあった部誌の中に見慣れた名前を発見して、なんと小説の名前であろうものが、ずいぶんと彼女の印象からは離れていたのだ。思わず適当に開いたページの描写を口ずさんでしまったのは悪いと思うから、わざわざ机を回ってきてまで距離を詰めてくるのはやめてほしい。
「責任」
「じゃあ腹掻っ捌かせていただきやす……」
「違うんですよねぇ」
責任のとり方が方向音痴ですよ、とため息をつきながら、美穂は加えて嘆息した。
文芸部は来る文化祭に向けて部展を開こうとしたが、なんともまぁ運の悪いことに――というか必然であったのだが――すべての部員が文化祭実行委員に入っていたらしいのだ。これには部長さんも慌てた。それこそ図書室で静かに読書をしていた文学少女を捕まえてくるくらいには慌てていた。
話の流れからわかると思うけれど、図書室で静かに読書をしていた文学少女というのは、目の前のジガバチこと逆瀬川美穂だ。今は目の前っていうか真横にいる。それで耳元で「責任……責任……」と囁く新手の化け物になっていた。
「新感覚ASMRやめない?」
「この恨み晴らさでおくべきか」
「ごめんて」
予想以上に傷は深かったようだ。
「じゃあ一緒にお出かけをしましょう」
「そんなのでいいの?」
「そんなのがいいんです」
「美穂がいいんだったら、まぁ……」
というわけで一緒に遊ぶことになった。
今回は自分が悪いので文句はない。
強いて言うなら人間が良かったなぁ。
「文化祭当日は、ここで缶詰になるんですね……」
「他に出られる人いないもんね」
それを目的にして代打に抜擢されたわけであるが、わかっていても、美穂は悲しそうである。さすがに初めての文化祭を働き通しというのは辛い。
「あー、どこかに文化祭当日に文芸部の出し物を見ていってくれる人がいないでしょうか。できれば数時間くらいは居座ってもらって、ついでにお手伝いとかしていただけると非常に嬉しいんですが……いないですよねぇそんな人」
「了解した」
婉曲なお手伝いの要求。
俺は間髪入れず了承した。
贖罪があるからね。
「わぁお願いしていたわけじゃないんですが、なんと自主的にお手伝いを申し出てくれるなんて……ありがたいです」
「どの口が言うんだどの口が」
「この口ですよ。じっくり見せてあげましょうか?」
いらんいらん、と適当に手を振って椅子から立ち上がる。気づかないうちに結構な時間になっていた。間もなくホームルームの時間だ。集合場所に行かなければならない。
「それじゃあ」
「はい、さよならです」