文化祭も終了して十月である。
俺は机に肘をついて窓の外を眺めている。
なにもセンチメンタルな気分になっているわけではない。
それよりもむしろ……。
「化野」
「ん」
「化野って辛いものは好き?」
「好き……だね」
その後の展開が見えてしまったので「嫌い」だと言おうかと思ったが、半年以上一緒に過ごしてきた仲だ。もはやゾンビと出かけるのも慣れてしまって、たとえ目の前で化け物をしていても普通に食事が取れるだろう。
一般的な男子高校生を自称するものとして少し逸般的かとも考えた。けれども、人間は慣れる生き物である。適応能力を鍛え上げてきたのが人間という種族だ。別に死体と食事くらい誰でもできるか、と考えを改めた。
「実は近くに新しいラーメン屋が出来たらしいのよ」
「へぇ」
「なんでも、ものすごい辛いラーメンを出すらしいわよ。一味唐辛子が『これでもか』ってくらい乗ってて、湯気を吸い込むだけで咳き込むくらいの」
話を聞く限りだいぶ辛そうなのだが、はたして自分が許容できるくらいの範疇に収まっているのだろうか。辛いものは特段苦手ではないものの、さすがに平均を逸脱するほどではない。辛さを売りにしている店なのであれば、もしかすると食べきれないということも……。
「俺はまぁ大丈夫……だと思うけど、雪花は?」
「誘ったのは私よ? 余裕に決まってるじゃない」
余裕綽々という様子である。
雪花は尊大に腕を組んで、窓に寄りかかっている。
隣の席に座っている彼女の姉――草壁菜々花は、いつも通りジャングルのようなお弁当を食べながら、こちらの話に耳を傾けていた。
菜々花に耳は存在しないが。
「菜々花は?」
「……ん、はい? なんでしょう」
「いや三人で昼食を取っててさ、一人だけ誘わないってのも」
雪花は俺達とは別のクラスで、かつ結構な距離があるのだが、こうやってときどき昼休みに襲ってくる。まぁその頻度を「ときどき」と表現していいものかは怪しいが。今日もゾンビが来るんじゃないかと、俺の心臓はいつもドキドキしている。
気まずさに話を投げかけたところ――気まずさ百パーセントではなく、なにかの間違いでゾンビが食欲を爆発させたとしても、真横に肉塊が置いてあったら、そちらに飛びつくだろうという情けない判断のもとで――菜々花は苦笑した。
「ごめんなさい、お誘いはありがたいんですけど……」
私はお肉とかが苦手ですから。
と彼女は触手で弁当箱の中身を見せてくる。
やはり緑が過ぎる。
地球温暖化を食い止められそう。
「じゃあそういうわけだから」
昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り響いているのを背後に受けながら、ゾンビのくせに様になっている、髪を払う仕草をして雪花は教室を出ていく。今にも腐り落ちそうな金髪が、しかし根強く彼女のあとを追う。
「ふぅ……」
放課後の予約が入れられてしまった。
さて、今更逃げられないが。
「あはは……ごめんなさい?」
「別に菜々花が謝ることじゃないし」
友達とご飯食べに行くだけだからね。
と俺は机に頬を当てて、ため息をついたのであった。
慣れたとはいえ化け物と一緒にラーメン屋かぁ。
「まずいわ」
「……一応聞いておくけど、なにが」
「まさか味だと思う? 辛さよ」
汗をダクダクにかいた雪花が、紙エプロンを小刻みに震わせながら水を呷る。舌の上に残る辛味――それと一味唐辛子の塊を飲み込んで、彼女はコップを程よい強さで机に叩きつけた。
「まぁカウンター席で、目の前に店の人がいるのに、味に対して〝不味い〟なんて形容しないと思うけどさ」
「きっと美味しいんだとは思うわ」
「ずいぶんと漠然としてるね」
「だって味がわからないんだもの」
雪花はため息をつく。
「調子に乗ってたわ」
「だから注意書きを守れと……」
俺は半眼を彼女に向ける。
さすがの雪花も反省しているようだ。
肩を落として「ちびちび」と麺をすすっていく。
ナメクジのような速度で。
この店は食券式なのだが、その横に『当店で一番辛いラーメンは慣れている人でないと完食できない可能性が高いです。ご注意下さい』と書いてあったのだ。それを雪花は華麗にスルーして、一番辛い商品を頼んだ。そしてこの様。
「……いやね、違うのよ」
「言い訳だけは聞こうか」
「辛いカップ麺を結構食べてて」
「うん」
「だから大丈夫……かな、って……」
続ける度に声が小さくなっていく。
ついでに肩も小さくなっていく。
麺をすする動きはついに止まった。
人道なんてまったく知らなそうな見た目をしているのに、そのくせ意外と「料理を残してはいけない」などの礼儀は守る。
一味唐辛子が大量に乗っていて、あまりにも粉が多すぎて汁がほとんど吸われているラーメンを、再び攻略に挑戦する雪花。けれども辛そうだ。こぼれ落ちそうな双眸からは涙が一筋こぼれ落ちている。
「……はぁ」
俺は一つ嘆息して、
「雪花」
「……なぁに?」
「辛いもの食べたくなっちゃってさ」
自分が今まで食べていたラーメンを指差す。
比較的赤くない、一般的なものだ。
「もしよかったら交換してくれない?」
「……いいの?」
「俺が頼んでることだから。食べかけでよかったら、だけど」
「………………ごめん、ありがとう」
らしくもなくシュンとしている雪花は、しかしほのかに口元に笑みを浮かべて、器を交換してくる。見ていられなくて交換したのだが、こうして目の前に鎮座されると、本当に辛そうだ。食べられるかな。
――と、まぁ。
俺はなんとかラーメンを食べきって、どうやらそれを眺めていたらしい店主さんに「男見せたな坊主!」とサムズアップを頂いて、あまりにも恥ずかしい思いをしたものだから急いで店を出た。
すっかり元気を取り戻した雪花に腕を引かれながら、帰路につく。
「化野!」
「ん」
いまだに痛む舌と唇に意識をやっていると、満面の笑みを浮かべた彼女がこちらに振り返ってきた。
「やっぱり、私あんたのことが――」
【――――――――――】
ここで俺の意識は暗く染まった。