村での生活にもだいぶ慣れてきて、曜はすっかり周りの人達に受け入れられたようだ。現在も隣の家にお邪魔している。彼の祖母が用事があったために同行したのだが、「おおう曜君じゃないか」とお茶菓子を貰った。
「……」
心地のよい風が吹き込む居間。
畳の匂いが充満するそこで、曜は無心に羊羹を口に運んでいる。
お茶はまだ熱くて手を付けていない。
彼は猫舌気味だった。
「いやー、曜君はいい子ですね」
「うふふ、そうでしょう」
「うちのバカ息子にも見習わせたいくらいで……」
台所のほうからそんな会話が聞こえる。耳を塞ぎたくなるような内容だった。少なくとも褒められることにあまり慣れていない曜にとっては、素早く羊羹をかきこんで逃げ出したいくらいには。
しかし年齢の割に成熟している彼は、そんなことをしてしまえば自分の印象が悪くなるだけでなく、保護者をしてくれている祖母にまで迷惑がかかることを理解していた。ゆえに動かない。恥ずかしさを誤魔化すように羊羹を食べる。
「はーさんも鼻が高いでしょうなぁ……」
はーさん――曜の祖母の愛称である。下の名前は
彼女は村人達から好かれていた。
それは彼女の人格のおかげでもあるし、困ったときに解決策を教えてくれる、という頼れる人物でもあったからだ。
そんな地獄のような空間から逃れられたのは、それから三十分程度が経過した頃だった。
曜は疲れ果てていた。敷きっぱなしの布団に飛び込む。
「はぁ……」
ため息を一つついて、まぶたが重くなり――。
「あ」
気がついた頃には十四時を回っていた。
今日は十三時から太郎達と遊ぶ約束をしていたのに。
曜は慌てて立ち上がる。
「おばあちゃん!」
「ん、どうしたんだい曜。そんなに慌てて」
「遊ぶ約束してたの!」
「それは不味いねぇ……」
頬に手を当てて心配そうな表情をする直子。
しかし珍しく曜の子供らしいところを見た、とご満悦だ。
曜は一切目もくれないが。
そんな余裕はない。
サンダルをつっかけて飛び出し走る。暦の上では夏を迎えて久しいが、あたりには夏らしい気配はなかった。けれども今日は暑い。首筋に汗が一筋流れる。額にもじっとりと浮かんできた玉を袖で拭って、曜は走った。
「はぁ……はぁ……」
たどり着いたのは河原だった。
まだ川瀬は見えていないが、声が聞こえてくる。
子供らしい甲高い声だ。
「きゃー!」
「それ、いくぞっ!」
「あぶぅ!!」
曜が慎重に階段を降りていくと、堆積した丸い
黒髪と金髪と金髪。
太郎と草壁姉妹だ。
「――お、あっちー!」
「ごめん遅くなった」
じゃり、と礫を踏みしめる音に気配を悟ったか、太郎が真っ白な歯を見せながら振り返る。若干気まずそうに頭を掻いている曜。
「待ってたぜ」
「……だろうね」
曜は残りの二人の姿に目をつぶった。
川で遊ぶというのだから、当然彼女らは水着姿だ。真っ白な肢体が紺色の水着から伸びており、水が日差しを眩しく反射する。最近女子との距離感を理解してしまった太郎のみに相手をさせるには、少々厳しかっただろう。
「お兄ちゃん遅いよっ!」
「ごめんごめん」
「お詫びに〝私と〟遊んでもらうんだから!」
ご立腹している様子の雪花は、可愛らしく腰に手を添えて頬を膨らませている。腕には浮き輪がしっかりと装着されていた。ここの川はそこまで深くないが、やはり子供に遊ばせるとなると、こうして用心をするのが親の気持ちである。おそらく雪花の好みを反映しているであろう浮き輪から、彼女らの両親の想いが見て取れた。
「……ふふ、雪花は化野君のことが好きなんですね」
同じく浮き輪に胴体をくぐらせて――色合いは雪花のものと異なり、落ち着いた緑色であったが――菜々花は苦笑する。
「大好きだよっ! お兄ちゃんだもん!」
「お兄ちゃん違う」
「むぅー!」
ぽこぽこと弱い力で殴られる。
曜はそれを無視しながら水着に着替えていった。
当然異性がいる状況で裸になることはない。
家を出る前に、服の下に水着を着てきたのだ。
「……お待たせ」
「へへへ、ようやくだな。あっちー」
鼻の下を指で擦る太郎。
「これで思う存分遊べるぜ」
「……? 今までは我慢をしていたんですか?」
「い、いやぁ!? 違うけど!?」
不思議そうに首を傾げる菜々花に、太郎は川の水に混じって流れる汗を隠しきれなかった。明らかに挙動不審な彼の姿に曜は困ったように笑う。それは脇に雪花が引っ付いていることが原因かもしれないが。
大人が付いていなくとも、子供だけで遊ばせておけるほど浅い川に子供の声が響く。
やがて遊び疲れた彼らは河原に座り込み、そんな四人を斜陽が包みこんだ。
「……ねぇ、お兄ちゃん」
「ん」
「私いつか海に行きたいな」
体を大いに動かしたせいか、非常に眠そうな雪花が、夢見がちな語調で呟く。体育座りをして膝に頬を付けながら。
鳥辺野村は山間にある。ゆえに海など遥か遠くであり、この村で生まれ育った者の中には、海はおろか都市すら自分の目で見たことがない者すらいた。小学生の身分で「海に行きたい」など贅沢なことであるが、曜は決して否定しなかった。
「行けるよ」
「本当?」
「本当。いつか一緒に行こう」
そもそも曜は都会から来た人間である。
海はかなり身近な存在だった。
そのために簡単に言葉が出る。
「……えへ」
可愛らしく首をこてんとした雪花は、ちょうど隣に座っていた曜の肩に頭を乗せた。清涼な川の匂いのその奥に、わずかな女性らしさを醸し出す香り。思わずドキッとしてしまった曜は、しかし意識して無表情に努めた。
「なぁ、あっちー」
「なにタロー」
「顔赤くなってんぜ?」
「夕日のせいだよ」
「本当かねぇ……」
堪えきれずに響き始めた太郎の笑い声が、河原にはいつまでも、いつまでも残っていた。