すでにカレンダーは六月のものが蔓延っており、すっかり桜の花は姿を隠していたのだが、そのような些事は彼らにとって関係がなかった。
「ふー、疲れたぁ」
「だいぶ作業したもんね」
「あっちーはどう? 進んだ?」
「結構」
以前遊んだ川の向こう、緩やかな山の中に――あまりにも傾斜が緩いものだから、そこは山というよりも丘と表現するほうが適当かもしれない――秘密基地を作っているものがいた。曜と太郎だ。
二人はハチマキのように額にタオルを巻いている。
「へへ、この木すごいだろ?」
「よくもまぁ、こんな大きいのを見つけてくるものだよ」
「山を走り回ってたらさ、登っても問題なさそうな……ってゆーか秘密基地を作れそうなくらい大きな桜の木があったんだよ!」
それがこれ!
と太郎は自慢げに胸を張った。
曜はぱちぱちと拍手をしながら、
「秘密基地なんて男の子の憧れだもんな」
「だから皆には内緒だぞ?」
「わかってるって」
口元に笑みを浮かべた。
小学生二人が作業をするのだから、そこまで大規模なものは作っていない。素材もせいぜい段ボールを使う程度である。
けれども彼らにとっては大仕事だった。
「この桜の木だけどさぁ」
「うん」
「知ってる? 花言葉」
まもなくお昼ご飯の時間ということで、二人は作業を中断して木陰に集合する。リュックサックの中に入っていたおにぎりを取り出したところで、太郎がなんの気もなしに話しだした。
花言葉などには疎い曜は「さぁ?」と首を傾げる。
「桜はなぁ、『私を忘れないで』って花言葉があるんだぜ」
「それ本当? 聞いたことないんだけど」
「まぁどこか外国のやつらしいけど」
「日本のやつを教えてよ」
「実は知らないんだなー!」
なんだそりゃ。
曜は肩を竦めた。
しかし太郎は楽しげだ。
「俺な、死んだら桜の木の下に埋めてもらうんだ」
「梶井基次郎かな」
「誰それ?」
「……なんか有名な小説家? らしいよ」
「へぇ」
小学生には難しい話のようだ。
二人はおにぎりを食べ進める。
「でもなんで桜なの?」
「えー、だって死んだあとも忘れてほしくないじゃん」
「だから『私を忘れないで』?」
「そう!!」
太郎は
釣られて曜も笑う。
「秘密基地が完成したらさ」
「うん」
「なっちゃん達も呼ぼうぜ」
「さっき皆には秘密って言ってなかったっけ」
「それはそれ、これはこれ!」
残り一欠片のおにぎり口いっぱいに押し込んで、「じゃあ作業再開しよう」と立ち上がった太郎に、曜は苦笑しながら続いた。このまま話していても
「いよぉし、気合い入れるぞー!」
「…………」
「あっちーも声出して!」
「えぇ……」
ホラホラホラホラ!
ばんばんと叩かれる肩。
曜は苦笑をさらに深くして、思い切り息を吸い込んだ。
「――よっしゃあ!」
「これはすごいですね……」
「お兄ちゃん達が作ったのっ!?」
無事に完成した秘密基地に招待した草壁姉妹。彼女らはまん丸く双眸を見開いて、ワクワクしたように胸を弾ませていた。山を登る際に曜の手を握っていた雪花は、興奮しているのを隠しもせずに彼の鼻先に顔を近づける。
「……近い近い」
曜は一切の動揺なく――実際のところ演じているのだが――雪花の鼻先を指で突いて、鼻腔に彼女の頬の香りがしない程度まで距離を取った。
雪花は不満げに、
「お兄ちゃん最近冷たい!」
「大して変わらないと思うけど……」
「ちょっと前までもっと距離近かったもん!」
止める間もなく曜の胸に飛び込む。
離れたはずの距離がゼロになる。
砂糖菓子のような匂いに頭がくらくらした。
さすがに見かねた太郎が――彼も女子が近くにいると緊張してしまう気持ちがわかるので――雪花を引き剥がす。彼女は非常に嫌がっていたが、姉である菜々花にまで注意をされると、さしもの雪花でも引かざるを得なかった。
曜は太郎に感謝をしつつ、胸の中で嘆息する。
――以前まで距離がもっと近かった。
それはそうだろう。
まだ雪花のことをただの子供だと思っていたのだ。
自分自身も小学生であることは無視して。
しかし何度も何度も抱きつかれた現在、彼女の体の柔らかさだとか色々な差異を理解してしまって、ついに曜は恥ずかしくなってしまった。なぜか心臓が痛むのだ。どくどくと拍動がうるさくなる。
「雪花ちゃん」
「なぁに」
「淑女らしい落ち着きを身に着けようか」
「しゅくじょ、ってなに?」
誤魔化すように大人らしいことを言ってみたものの、雪花は「淑女」という言葉を知らなかった。
これには曜も困る。
「雪花」
「ん」
「もっと落ち着きを持ちなさい、ということです」
そこに菜々花のフォローが入った。
彼女は片目をつぶって曜に笑みを向ける。
曜の心臓がさらに痛くなった。
「そんなことよりさ、せっかくの秘密基地だぜ!? もっと楽しいことしようよ!」
変な感じの雰囲気が漂う打破するために、太郎は大きく腕を振りながら秘密基地を指さした。彼は自分の行動の意味を理解していないだろうが、周りにとって一番してほしい行動をするのが太郎のいいところだ。だから彼は人気がある。
曜は太郎に感謝の視線を送って、四人程度の子供であれば問題なく登れそうな桜の大木を見上げ、そこに立てられた秘密基地を眺める。
太い枝の隙間に枝を通し、壁は段ボール製。雨などが降ればすぐにでも壊れそうなものであるが、ブルーシートやらを掛ければ大丈夫だろう。
「じゃあトランプしよう。家から持ってきたんだ」
木陰に置いてあったリュックサックを持ってきて、曜は提案した。彼は遊び心を忘れていなかったのだ。しっかりと家からトランプ及びその他の遊び道具を持ってきている。
太郎達は曜の笑みに目を輝かせ、競うようにして秘密基地へと登っていった。
そこには暗くなるまで、いつまでも楽しげな声が響いていたのであった。
いつまでも、消えることなく。