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シャレオツなサテンでチルってバイビー

 喫茶店というのは基本的に落ち着いた雰囲気を持っているものであるが、この店もその例に漏れず、学生と思わしき額にニキビを貼り付けている男性の、鉛筆を紙に走らせる音だけがしきりに耳に入ってきた。



 机を挟んだ先。

 図書館で借りてきた本に静かに目を落としていた美穂が、俺の視線に気がついたのか顔を上げる。



「なんですか?」

「いや」



 なんでもない。

 言葉にすることなく仕草で表した。

 そっと斜め下を向いて、否定の意を示す。



 ジガバチから意識をそらすために店内に注意してみれば、隣の席で学んでいる彼の発する音だけでなく、かすかにジャズらしき音楽が流れているのを発見した。



「美穂」

「はい」

「なに読んでるの」

「気まずいんですか?」

「居た堪れない空気にむりやり見つけだした質問じゃなくてさ、普通に気になったんだよ」



 彼女は文庫本を読んでいる。

 机に置いているため、表紙は見えなかった。



「これはですね」

「うん」

痴人ちじんの愛です」

「痴人の愛」



『痴人の愛』といえば、かの文豪谷崎潤一郎の作品である。内容はちょっとあれなので明言を避けるが、目の前で絶賛読書に励んでいます、と宣言されると少し引いてしまうくらいの内容なのだ。



 俺はなんとも言えない顔をする。

 その無機質な表情は昆虫のごとく。

 ここに二匹の昆虫が現れた。

 ブーン。



「もちろん図書館で借りたのは一冊だけではありません」

「というと」

「こちらに二冊目があります」

「なるほど。拝見します」



 思わず敬語になってしまう。

 美穂はあまりに堂々としていた。

 痴人の愛を読んでいるとは思えないほど。

 いやまぁ別に官能小説というわけではないけどさ。



 多分。



春琴抄しゅんきんしょうでございます」

「あちゃあ」

「私、結構作家読みするんですよね」



 作家読み云々ではない。

 なんだか怖くなってきた。



 目の前に淡々と積み上げられていく本の群れ。

 田山たやま花袋かたいの『布団』。

 同じ著者の『少女病』。

 川端かわばた康成やすなりの『眠れる美女』。

 もり鴎外おうがいの『ヰタ・セクスアリス』。

 あぁ、どんどん増えていく……。



「どうでしょう。これぞ文学少女というラインナップではないでしょうか。何冊か読んだことがあるものも入っていますが、いい機会なので読み直そうと思って。韋編いへん三絶さんぜつと言いますからね」



 ついに俺は喋らなくなった。

 喋れなくなった。

 目の前の存在が、まるで化け物かのように思えてきたのだ。

 実際に化け物なのだが。



「ちなみにさ」

「はい」

「作為はあるの」

「作為とは、一体どういうことでしょう」

「オーケー」



 帰るわ。

 喫茶店に響かないよう、慎重に椅子を引く。

 美穂は驚いたように肩を跳ねさせた。



「え、急にどうしたんですか」

「寒気がしてきて」

「やっぱり体調が悪いんじゃないですか?」

「おそらく精神的なものだから……」



 昆虫とちょっとあれな本の内容のダブルパンチ。やはり読書を趣味とするからには一通り文学作品には目を通していて、彼女が借りている本にも見識はあるが、それはそれとして怖い。



「安心してください」

「なにが」

「私は手術をしたことがありません」

「安心する要素がどこにもない。それと手術をするほどの問題じゃないから」

「私、失敗しないので」

「説得の仕方失敗してるよ」



 浮かした腰を下ろす。



「ところでさ」

「はい」

「この喫茶店いいところだね」

「そうでしょう?」



 美穂は自慢げに微笑んだ。

 昆虫の見た目をしているものだから、俺の類まれなる洞察力によって導き出された予想であるけれども。きっと合ってると思う。



「曜君とは何度か喫茶店を訪れていますよね」

「腹立たしいことにね」

「腹立たしいとはなんですか、腹立たしいとは」



 可憐で純情な妙齢の乙女に向かって。

 私の心が強化ガラス製だとでも思っているんですか。

 儚い朝露のような精神ですよ。

 丁重に扱ってください。



 などと化け物はのたまった。

 おそらく鏡を見たことがないのだろう。



「その中でも、結構お気に入りなんです」

「もしかして喫茶店巡りとか」

「しますね」



 冷めてきたものの美味しさを変わらず保っているコーヒーをすすって、俺は目の前に座る美穂の全体像を眺めた。



 なるほど。

 たしかに文学少女と表現して差し支えない。

 ……かもしれない。



 圧倒的な存在感の外見と、こちらを殺そうとしているのかと邪推してしまう、文学作品の群れがなければ。



「文学少女、ね」

「お好きですか?」

「好きだよ」

「きゃっ」

「ちょっと待って」



 手のひらを向ける。

 彼女は不思議そうに首を傾げていた。



「なんですか?」

「自分の発言と、相手の反応に齟齬を感じて」

「私って文学少女じゃないですか」

「うーん」



 難しいところだ。

 まず人間じゃないから。 

 話はそこからじゃないか?



「そして曜君は文学少女が好き……と」

「否定はしない」

「じゃあ私のことも好きってことで」

「違うんじゃないかなぁ」

「違うんですか!?」

「違わ、ないかなぁ……」



 眼前に昆虫の頭が来た。

 反射的に言葉を撤回してしまう俺。

 右に流される系男子であることを認めてはいるものの、相手が化け物となると、そのうち危険な契約でも結ばされそうで怖い。



 その後も数十分ほど無駄な話を続け、やがてどちらからともなく立ち上がると、肩を並べて喫茶店を出ていく。さながら熟練の友人のような振る舞い。ツーカーとでも言おうか。



「曜君」

「ん」

「今日は付き合わせてしまって、すみませんでした」



 美穂は困ったように笑う。



「でも、雰囲気のいいお店を見つけて、どうしても曜君と一緒に来たかったんです」

「俺も楽しかったからいいよ」



 冬は暮れるの早いものだが、本日もそれは変わらず、あるいはさらに顕著だった。店をくぐったときには外はすでに暗さを湛えており、それなりに急がねば帰宅する頃には夜が来てしまうだろう。



「ふふ、ありがとうございます」



 美穂は莞爾かんじとして笑った。



「じゃあね」

「はい、また」

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