どうして俺はこんなところにいるのだろう。
まだまだ冬の寒さが残る季節。
湯気を上げるお茶をすすりながら、自問していた。
「どないしたの曜くん」
「人生は何が起こるかわからないなぁ、って」
「えらいややこしいこと考えとんにゃ」
机を挟んだ向こう側。
そこで静かに茶碗を傾けるのは、等身大まっくろくろすけこと須佐美陽子である。
彼女は「家ではこれで過ごしとるんよ」という和服に身を包んで、ちょこんと正座をしていた。
ふわふわした外見からは想像もできない声で、陽子は尋ねてくる。
「緊張しとる?」
「まぁね」
「うちも」
艶やかに囁いて、彼女は立ち上がった。
するりと足を進め俺の隣に腰を下ろす。
あまりに自然な動きだったから気付かなかった。
「どうしたの」
「何がぁ?」
「突然距離を詰めてきて」
「ドキドキした?」
「ドキドキはしたかな」
恐怖的な意味で。
詳細を省いて俺が答えを述べると、陽子は嬉しそうに頬に――人間でいうところのだ――手を添えて首を傾げる。
「ふふ、かんにんえ。こんなんに付き合わしてもうて」
「いいよ。俺も非日常感があって楽しいし」
「そう言うてもらえると助かるわぁ」
現在地点は須佐美邸――しかも陽子の部屋だ。
畳敷きの広いところで、ふすまを開ければ庭が見える。
異性の部屋に訪れるのは初めてのことなので、だいぶ緊張していた。
夏休みには彼女を家まで送り、家族の方に見つかって修羅場になるという事件が起きた。しかし中に踏み入るのは初めてなのである。
武家屋敷の雰囲気に飲み込まれないよう、静かにお茶をすすった。
「うちのおかん、やかましいさかい」
陽子は少し不満げに呟く。
脳裏によぎるのは俺を誘った理由だろうか。
「それにしたって彼氏の顔見せろなんて……おかんとはいえあかんよな」
「彼氏がいるなんて嘘をついたのが悪いんじゃない」
「そやけど曜くんがおるし……」
「俺は彼氏じゃないからね?」
どうも彼女は意地っ張りらしく、一向に異性の影が見えない娘に耐えかねた母親の「あんた恋人とか作らへんの」という煽りじみた質問に、思わず「うち彼氏いるし!」と強がってしまったようなのだ。
しかし現実は無情である。
自分以外の目には美少女として認識されるのに、陽子には親しい間柄の異性が存在しなかった。
そこで白羽の矢が立ったのが俺。
彼氏を紹介するという流れに今さら口を突っ込むわけにもいかず、さりとて代役は用意しなくてはならない。
申し訳なさそうにお願いしてきた陽子に、頼まれたら断りづらい俺が拒否できるわけもなく。
こうしてドキドキの家庭訪問と相成った訳である。
「……ふふ」
「どうしたの」
「いんや、不思議やなぁって」
陽子は、じっとこちらを眺めていた。
いくら双眸がないからといって視線を感じれば居心地が悪くなる。
「何が不思議なの」
「うちのお部屋に曜くんがおる……これってぎりぎり同棲って判定でええ?」
「駄目じゃないかな」
何をのたまうのだろうか、この塵は。
俺は気恥ずかしさを誤魔化すようにお茶を呷った。
あまりに頻繁に飲んでいたものだから、ついに茶碗は空になる。
しかし流れを変える闖入者があったことで、その場は何とかなった。
「お嬢様。奥方がお呼びでございます」
きっちりと和服で身を固めた切れ長の目の女性が、正座をしながら廊下に座っていた。彼女はふすまを開いた姿勢のまま、
「……いくら男女の仲とはいえ、距離が近すぎませんか?」
「こ、こらちゃうで!?」
さすがに知り合いに見られるのは恥ずかしいらしく、陽子は慌てて立ち上がり、隣から飛び退いた。
残された俺は頬を掻くばかり。
疑わしげな視線が眉間に突き刺さっているのだ。
「――お嬢様を傷物にしてみろよ。貴様を傷物にするからな」
「こら山本! 曜くんはそないな人とちがう!」
「……そうですか」
では、お待ちしております。
と山本さんというらしい女性は立ち去っていった。
残された二人の間には微妙な空気が横たわる。
塵のくせに一丁前に顔を羞恥に染めたと読み取れる陽子は、あわあわとした様子で袖を振り乱した。
「よ、曜くん。あれはちがうから」
「わかってるよ」
これ以上ないくらいに理解している。
しかし一切の戸惑いがない反応にむくれたのだろうか、陽子は少し拗ねたような雰囲気を宿して、再び隣に座ってきた。
なぜ?
「……陽子?」
「ちゃう」
「何が」
「……ちゃうで」
彼女は静かに、それ以上何かを言うこともなく、頭を預けてくる。
不思議な重さを肩に感じて、俺は黙りこくってしまった。
雰囲気が口を開くのを妨げるのだ。
しばらく俺達はそんな空気に浸っており、どうも来るのが遅いぞと訝しんだらしい山本さんが、再び部屋を訪れるまであと十秒。
◇
「………………」
「………………」
気まずい。
陽子との間に、気まずい空気が流れていた。
二人で廊下を歩いている。
もちろん二人きりではなく、前には山本さんの背中が見えた。
彼女は何も喋らず、ただ背中だけで語りかけてくる。
――お嬢様に付く悪い虫め、覚悟しておけよ。
俺はもはや諦めの境地にいた。
こんな状況を作ってしまった陽子も申し訳なさそうだ。
肩を落として、隣を歩いている。
さすがに見ていられなくなって、何とか励まそうと言葉を探し始めたところで、前を行く山本さんが立ち止まった。
「奥方のお部屋に到着しました。覚悟の準備をしておいてください」