以前陽子の家を訪れたとき、たまたま彼女の父親に遭うという事件があった。
自分の愛娘が知らぬ男を連れているのだから、当然修羅場になったものだ。
俺は這々の体で逃げ帰り、何とか殺されずに済んだ。
しかし今は状況が違う。
陽子の母親がいるとかいうふすまの前。
まるで地獄の門を前にしているかのようだった。
知らずのうちに汗が吹き出る。
動悸は加速し、右に回れをしたくて仕方がない。
そんな俺の様子を見かねたか、隣に立っていた陽子が声をかけきた。ずいぶんと心配そうなトーンで、湿った下駄を転がすような声だった。
「……曜くん? そないに心配やったら、うちから言うて何とかすんで」
「いやいいよ。大丈夫」
「巻き込んでかんにんえ」
申し訳なさそうである。
心なしか埃のふわふわも小さくなっているような。
俺は苦笑して、口を開いた。
「失礼します」
山本さんがふすまを横に開く。
畳の――い草の匂いが鮮烈に漂ってきた。
クラリとしてしまいそうな空気の中、ただ気合だけで足を進める。
「――なるほど」
そして、俺は瞳を閉じた。
目の前の現実を理解したくなかったのだ。
横から困惑したような陽子の存在を感じるのだが、かといって、まぶたを開いてしまえば認めたくない事実が待つ。
完全なジレンマだった。
あるいは詰みか。
けれども異性の友達の家にお邪魔しているという立場で――しかも親御さんを紹介されるなんて場面で、いつまでも視界を閉ざす失礼が働けるはずもなく。
俺は安全ピンを飲み込むような気持ちで、薄目を開いたのであった。
もこもこ。
ふわふわ。
見方によっては可愛らしい。
まぁ端的に説明してしまえば苔がそこにいた。
堂々たる趣で畳に正座している。
この親にしてこの子あり。
隣に立つ埃の存在にも納得できるというものだ。
いやできねぇよ。
「お座りください」
その苔は静かに言った。
なるほど美麗な声であった。
苔であるという事実から目をそらすことが可能ならば、の話だが。
一般的な男子高校生を自称する俺にとっては、まったくもって大きすぎる
お言葉に従って座布団に腰を下ろすけれども、俺の意識はすでに現世にはとどまっていない。
分厚い壁の向こうで会話をする化け物同士の、音だけに集中すれば可愛らしいそれを、諦めたように聞くばかりだった。
「彼が噂の化野くん――あるいは、曜くんですか」
「おかんが〝曜くん〟って呼ばんといて」
「嫉妬ですか? 子供の成長は早いものです」
「おかん!!」
勢いよく机を叩く陽子。
それに対して苔はたおやかに口元を袖で隠した。
「いやぁ、少し前までこんなに小さかった娘が、気がついた頃には恋人を家につれてくるようになって。私は嬉しいですよ。お父さんは許していないようですが」
「……おとんのことなんか知らへん」
「まぁ強情になって。そこも可愛いですがね」
普段はマイペースで流れを作り出す陽子であるが、実の母親相手になると劣勢になるらしい。
彼女は苔の体勢を崩すことができず、悔しさを紛らわすようにお茶を呷った。
俺は可能な限り気配を薄くしていたのだが、さすがに部屋に三人しかいない――山本さんは入室する前に姿を消した――とそれも難しい。
ついに苔の視線らしきものを受け、自己紹介をせざるを得なくなった。
「化野曜です」
「ふふ、娘からよく聞いておりますよ」
「おかん!」
「今はこんな調子ですけどね、いつもは『曜くん今日はこんなことしとってな』とかそれはもう可愛らしい限りなんですよ」
「はぁ、なるほど」
気のない返事も無理はない。
なぜなら相手は苔である。
どこに苔を前にして会話に挑もうとする者がいるのだろうか。
少なくとも俺は、人間として植物を相手に話す気にはなれなかった。
化け物にも血筋が関係あるんだなぁ、とお茶をすする。
あるいは呑気にも映ったのかもしれない。
陽子が頬をむくれさせて、肩を弱い力で叩いてきた。
「曜くんもなんか言うたって!」
「何か、って……」
苔に視線を向ける。
不思議そうに首を傾げた。
最近は化け物に慣れてきてしまったせいで、苔に首があっても違和感を抱かないようになってきてしまった。
そもそもの話、苔だとか埃だとか肉塊だとかが直立している時点で変だろう。
細かいことを気にしていたら正気を保てない。
「ふふ、ノロケを聞かせてくださっても構いませんよ。むしろそちらのほうがいいですね。こんな歳ですけれども、やはり私も女ですから色恋沙汰は大好物なのです。それが実の娘のものともなれば、なおさら」
「いやぁお母さんは若々しい見た目をしていらっしゃいますよ。陽子……娘さんと並んでいても違和感がないくらいに」
「あらあら、まぁまぁ。口が上手いことで。この達者な語りで娘を落としたのかしら」
別に褒めたわけではないのだが。
若々しいというのは水分含有量……つまり物理的な瑞々しさをそう表現しただけだし、化け物だから横に並べても違和感はない。
通常は違和感の塊だというのは置いておいて。
かといって、あえて「いや蛙の子は蛙ですねって意味ですよ」なんて訂正する必要もなく、俺は苦笑しながら頬を掻いたのであった。