「あれ、君はもしかして、曜くんかい」
その言葉は俺の深いところに落ちた。
今まで欠けていたものが
「そう……です……」
「おぉ! やっぱり!」
一目でわかったよ。ずいぶん大きくなったねぇ。
と彼はしわしわの顔で言った。
まるで久しぶりに会った孫息子を撫でるように、俺の頭に手を置く。
薄気味悪かった。
自分の理性は〝知らない〟と語っているのに、体が〝知っている〟と確信している。
そんな矛盾に混乱する俺をよそに、菜々花は驚いたように声を上げた。
「え、お祖父ちゃん化野さんのこと知ってるの!?」
「何を言ってるんだ、小さい頃は一緒に遊んでいただろう」
「一緒に……?」
「あぁ、子供の時だから覚えていないのか。曜くんは小学生の……そうだな、低学年の頃の話だ。ちょっと体が悪くてね、空気の綺麗なここに引っ越してきたんだよ」
気持ち悪い。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
知らない。
知っている。
知っていた。
覚えていない。
覚えている。
覚えていた。
様々な混乱と困惑とが無秩序に頭の中で飛び回り、混迷した意識は発泡スチロールを砕くように消えた。
糸を失った人形。
俺は重力によって畳に引かれ、倒れ込む寸前に菜々花によって助けられた。
しかし意識が薄くなるのは止められない。
すぅと消えていく視界のどこかで、誰かが必死に呼びかけているのが聞こえた気がした。
◇
夏の盛りもとうに過ぎ、冬の気配が漂っている。
寒さに体を震わせて化野曜はため息をついた。
「雪花ちゃん」
「ん、なぁにお兄ちゃん」
「引っ付くのはやめようね」
「やだ。寒いし」
「だったらもう少し厚着をしなさい……」
草壁雪花は頬をむくれさせる。
「お兄ちゃんに抱きついたらあったかいよ」
「僕に対する視線が冷たくなっちゃうからね」
「じゃあ私がぎゅっとしてあげる」
「終わらない負の連鎖……」
曜は諦めた。
ふっと口元を緩めて、雪花の髪をグシャグシャに乱す。
「あーっ! せっかくセットしたのにーっ!」
「多分それ寝癖だよ。ぴょんと飛び出してたし」
「だから寝てる間にセットしたんだよ。お母さんとお姉ちゃんが太いハサミみたいので髪を挟んでて、私にも貸してって言ったら『雪花にはまだ早い』なんて。でも私もセットしたいから髪を濡らしたまま寝たの」
この冬の季節にか。
若干体が弱いのだから大切にしてほしい。
曜は雪花の額を弾いた。
「
「ちゃんと髪は乾かすんだよ」
その後も気の抜けるような会話をしながら、二人は山へ向かって歩いていく。
「……雪花ちゃん。見せたいものがあるって言ってたけど、本当にこんな山奥にあるの? 村の人達が入っちゃいけないところって」
「だいじょぶ。前は私一人で行ったもん」
「不安だなぁ」
しばらく山道を進んでいると、樹の下に見慣れた影を発見した。
曜は呆れたように目を細める。
「タローも来てたのかよ」
「おう。ゆーちゃんがどうしてもって」
「止めろよな」
悪い悪い、と
「ゆーちゃんってば結構強引なんだぜ」
「知ってる。僕も今まさに体験した」
「私は優しいよーっ!」
太郎も合流して三人になる。
彼らは雑談に興じながら傾斜を攻略していった。
「菜々花はどうしたの」
「なっちゃんは体調不良。何か微熱っぽい」
「そうだよ。お姉ちゃんは外に出ないほうがいいって」
でもすごい悔しそうにしてたんだ。私がお兄ちゃん達と遊んでくるって言ったら、『私も行きます……!』って布団から立ち上がろうとして。
雪花はどこか優越感を抱いているように胸を張った。
歩き始めてから十数分が経過しただろうか。
太い木の根を踏みつけたとき、太郎が思い切り咳き込む。
あまりの勢いに曜は彼に肩を貸した。
「……大丈夫?」
「全然ヨユーだぜ。ちょっとした
「じゃあ冬に運動なんてするもんじゃないよ」
「山登りなんて運動に入らねぇ」
子供は風の子というが、太郎はまさにそれだった。
満面の笑みを浮かべる様子に曜はため息をつくしかない。
まぁ、本人が言うなら特に問題はないだろう。
冬の山は寂しい。
木々は葉を落とし、動物は息を潜める。
そこに人間の無遠慮な存在感が侵入していった。
どれほど歩いただろうか。
空は暗くなり始め、曜はかすかな胸騒ぎを抱いていた。
「雪花ちゃんそろそろ帰ろう」
「えぇ? でもあと少しだよ?」
「心配すんなって。あっちーは肝が小さいぜ」
「かっちーん。あんま馬鹿にすんなよ」
「ははは!」
しかし雪花は唇を尖らせる。
太郎もわざと馬鹿にしたような態度を取って、曜はそれに乗った。
乗ってしまった。
三人は笑いながら山を行く。
各々が不穏な空気を感じながら。
山の端というのは得てして植物に乏しいものだ。繁栄しているのは雑草ばかりで、立派な樹木はほとんどない。
けれども奥へ進めば進むほど、木々の密集度合いが上がる。
すでに葉を落として久しいものだが、枯れた落ち葉は足元を不安定にさせていた。
また地面にあるくぼみも隠される。
雪花がちょうど踏み抜き、体勢を崩した。
「雪花ちゃんっ」
よく反応できたものだ、と曜は自分で自分を褒めた。
転んでも大した怪我はしないだろう。
だからといって、みすみす見過ごすわけにはいかない。
助けを求めるように伸ばされた腕を、彼はしっかりと握りしめる。
雪花は双眸に涙をため曜に抱きついた。
「あ゛り゛がどぉぉ」
「おーよしよし、怖かったねぇ」
「ごども゛あ゛づがい゛じな゛い゛でぇぇ」
太郎と曜の笑い声が、枯山に響く。