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サイコロは戻らない

 運のいいことに雪はあまり強くならなかった。

 ときどき肌に溶ける温度に冷たさを感じるばかりで、すぐに家へ帰ろうとするほどではない。

 けれども、いつまでも滞在するわけにもいかないだろう。

 曜は吸い込まれるように泉を眺めている雪花に声をかけた。



「雪花ちゃん、そろそろ帰ろう」

「えぇ……でも綺麗だよ?」

「綺麗なのは確かなんだけどね、時間もあれだし」

「私はこの景色を見てほしくてお兄ちゃんたちを呼んだのに!」



 もっと見てよー綺麗だよー何だったら秘密基地にしようよー、と彼女は駄々をこねる。さすがに胸を叩かれると弱い。

 どうするかなと悩んで曜は頬を掻いた。



「いやいや弱すぎだろ。意思を強く持てよ。そんなんじゃ将来尻に敷かれちまうぜ」

「小学生のくせに変な言葉を知ってるんだね」

「あっちーだって理解できるんだからそうだろ」

「僕は読書が趣味だから……」



 頭にチョップを食らわせた太郎。

 彼は雪花の視線に身長を合わせ、



「あんまり遅くなるとお母さんたちが心配するぜ?」

「私は大人の女だから大丈夫だよ」

「なるほど否定しづらい……」



 どうするよ、と視線を向けてくる。

 結局タローも駄目じゃないか。

 曜はため息をついた。



「雪花ちゃん」

「んぅ?」

「また来よう。今度は菜々花も連れて。だって一人だけ仲間はずれなんて可哀想でしょ。今日はこれくらいにしておいて、後で皆で来たほうがきっと楽しいよ」



 その言葉に納得したのだろうか。

 雪花はためらいつつも、ゆっくりと首を縦に振った。



 帰宅する空気になり泉に背を向ける。

 灰色に染まった水面は底がないように思われた。

 まるで無限に続く道のように、ずっと落ち続けそうな。



 曜はそんな妄想を振り払い、足を踏み出す。

 しゃきりと霜を潰して坂を登っていく。



 まだまだ元気いっぱいな雪花は帰り道でも満面の笑みだった。もしかすると、少しの時間でも、見せたかった景色を見せられて満足なのかもしれない。



 彼女はぴょんぴょんと岩を下っていく。

 つるりと足をすべらせ、曜に助けられた。



「これ何回目?」

「ごめんね、お兄ちゃん……」

「僕たちが近くにいたからいいけどさ、一人きりだったら大怪我してたよ。もう少し気をつけて」

「恐縮だよぅ」



 可能な限り申し訳無さを表現しようとしたのだろうか。

 雪花は肩を縮こまらせて謝罪する。

 天真爛漫な彼女がそうするとずいぶんと暗くなったような印象があり、曜はむしろ自分のほうが悪いことをしたのでは、と錯覚した。



 結局額を弱く弾いただけに留め、彼らは山下りを再開する。



「…………」



 雪が、降ってきた。

 今までよりも遥かに強く。

 軽いはずのそれは灰色を吸い込み、体を重くする。



 音はなくなり彼らの吐く息だけが聞こえた。

 氷に薄く積もった雪は足を絡め取り、体勢を不安定にさせる。



 急激に下がった気温は鼻腔を刺した。

 歯の根が噛み合わなくなり、意識が遠くなる。

 曜は眠気にも似た誘いと戦いながら、足を進めるのを速めた。



 自分の足音すら遠い。呼吸の一回が重い。もはや、まぶたを開くのも難しい。疲れと寒さゆえの震えが鬱陶しい。



 ……何かが聞こえる気がする。

 曜は彼方かなたの音を捉え、視線をそちらに向けた。



「ゴホッゴホッゴホッ!」



 尋常ではない咳を太郎がしていた。

 直接見たことはないが、まるで映画の中で苦しむ病人のような。

 今にも倒れてしまうのではないかと思う咳だった。

 彼は木に手を突き、隠そうとしているのか肩に力を込めている。

 しかし自然と漏れ出る咳を止めることはできない。



 どこかで聞いたことがある。喘息は気道に炎症が起きており、気温の低下によって刺激が強くなると、発作が起きてしまうことがあると。



 曜は思わず太郎に駆け寄り、背負った。



「馬鹿野郎ッ!」

「……くそ、大丈夫だと思ってたんだけどな」



 咳が止まる様子はない。

 喘息発作は適切な治療をしなければ死亡してしまうこともある、非常に怖い病気だ。

 小学生である曜はそのことを知らなかったが、太郎の咳の酷さに言われずとも悟ったのだろう。このままでは彼が危ないと。



 曜は恐怖を押し殺して山を下った。

 岩に足を取られ転びかけた。

 止まらなかった。

 むき出しの地表はところどころ緑が見えるようになり、心なしか空気がよく吸えるようになった気がする。

 きっと気のせいだ。

 それでも、絶望しているよりはマシだった。



 駆け下りる曜の隣で、雪花は顔を真っ青にしていた。

 二人の反応にとんでもない状況になっていると気付いた。

 寒さのせいではない震えが、彼女を支配する。



「わた、私が誘わなければ……」



 雪花の声は誰にも届かない。

 地面を踏みしめる音にかき消された。

 ただ自分自身の胸の中に染み入っていく。

 取り返しのつかないところまで、深く深く。



 背負われている太郎は朦朧としているはずの意識の中、くしゃりと表情を歪ませて囁いた。



「……あっちー」

「何!?」

「急がなくていいぜ」

「無茶言うな!」

そろそろだったんだよ・・・・・・・・・・



 その言葉に曜はハッとした。

 ――もし、俺の寿命が半年だって言ったら、どうする?

 梅雨の時期のやり取りが鮮明に思い出された。



「いやさ、症状が出ないから、本当に大丈夫だと思ったんだ。お医者さんにも大きな負担になる運動じゃなければ、してもいいって。山登りくらいは許されたはずだったんだよ」



 太郎はとぎれとぎれに言う。



「でも、怖いじゃん。最期かもしれないんだ。友だちと遊べる最後の機会かもしれない。もしも急に病状が悪化したら? 部屋にずっと閉じこもって、窓から外を眺めてるしかない。友だちが見舞いに来てくれたとしても、きっと酷いもんさ。どっちも変に気を使って」



 その後は咳によって聞こえなかった。

 声になるはずだった空気が、痛々しく響き渡る。

 耳元で聞いた曜はさらに速度を上げた。

 たとえ意味がないこと・・・・・・・・・・だとしても、止まる気にはなれなかった。

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