冬の山を一人で駆ける。
夜の闇に足がすくみ、それでも走り続ける。
すでに息は切れていた。
肺は凍るほどに冷たい。
乾いた空気に眼球には涙すら浮かばない。
曜は危機感に急かされて走っていた。
勢い盛んに駆け上ると、結露の塗れた岩肌に足を取られる。表面が氷となっていたのだ。転びそうな体を無理やり立て直す。
止まらない。
止まれない。
止まっていられない。
雪花は世を
放っておけば確実に死んでしまうだろう。
――そんなのは、駄目だ。
曜はさらに速くなった。
泉にたどり着いた頃にはすっかり全身に汗が張り付き、肩は制御できないほど上下し、足は自然と震える。
疲れのせいだろうか。
あるいは、恐怖のせいだろうか。
月明かりを照らす水面のそばに、不定形の闇がうずくまっていた。
全身から闇を噴き出し触手のようになっている。
彼は直子から詳細は聞いていなかった。菜々花が肉塊になっているのならば、では雪花はどうなっているのか。
考えるほどの余裕もなかった。
けれども一目でわかった。
曜は呼吸を整え斜面を歩きだす。
霜を踏みしめ一歩ずつ。
その音を耳にしたのだろうか。雪花はゆっくりと振り返った。
「……雪花ちゃん」
「来ないでっ!」
雪花は拒絶する。
闇の触手を伸ばして近づけないように。
それでいて力なく。
傍らまで歩み寄ってきた曜に、彼女は崩れ落ちた。しくしくとすすり泣く音が聞こえて、曜は顔を悲しみに染める。
たとえ見た目が化け物であろうとも、中身は変わらない。
僕がするべきことも、変わらない。
彼は静かに雪花を抱きしめた。
「雪花ちゃん……一緒に帰ろう」
「でもっ! タローくんは!?」
「僕たちじゃどうしようもできなかったんだよ」
「私が誘わなければもっと生きられたんだよ!」
無音の山に、寂しい泣き声だけが響く。
置いて行かないでと言っているような。
そんな寂しい泣き声だった。
やがて泣きつかれたのか、雪花は何も言わなくなった。曜が抱き上げてみるも抵抗はない。寝てしまったのだろう。
「……タロー」
君は僕たちを恨むかな。
これから生きていこうとする僕たちを。
自分は生きられなかったのに、って。
そのとき、優しい風が吹いた。
張り付いたそれを指で摘んでみると、花びらだった。
「……桜?」
この冬の季節に?
山を下りながら、曜は首を傾げる。
以前秘密基地を作ったところまで来たときの話だ。雪花を迎えに行くために通ったはずだが、闇に隠れて見えなかった。
しかし今は月明かりに照らされて姿をさらしている。
満開だった。
桃色の花弁が堂々と、天まで覆うように。
月下に佇む桜は恐ろしいほどに美しかった。
思わず曜は息をのむ。
幻想的な風景だった。
だがそれ以上に、
「タロー?」
カワヅザクラ。
早咲きの桜で、二月から三月頃には咲く。
そして花言葉は――思いを託します。
もちろん曜は知らなかった。
知らなくても、理解できた。
隣で太郎が立っているように、耳元でささやくように、理解できた。
強く雪花を抱きしめて、彼は口角を上げる。
「任せて」
帰り道に問題は起こらなかった。
一歩ずつ確実に足を進めていった。
決して転ばないように。
雪花を無事に帰せるように。
曜が家までたどり着いた頃には、月は天上から降りて地平線を目指していた。疲れが重くのしかかる体で扉を開ける。
「……曜。よく頑張ったね」
「うん……ごめん、もう眠い」
「安心してお眠り。お疲れ様」
言うやいなや、彼は倒れ込んだ。
曜と雪花を抱きとめて直子は笑う。
「起きているんだろう?」
「……うん」
雪花は静かに起き上がった。
表情はないにもかかわらず、ひどく冷静なのだろうと思われる。
「私のことは異形に見えるかな?」
「……ううん。いつも通りの、お兄ちゃんのおばあちゃんに見える」
「そうか。自分だけが
直子はぽんぽんと雪花の頭を叩いた。
まるで何もかもを許されたようで、雪花の心が溶ける。
「わた、私ぃ……っ!」
「辛かったね。よく頑張った」
「違うの! 私じゃなくて、タローくんがぁ……!」
「それは君のせいじゃない……と言っても、認められないだろうね」
しばらく彼女は泣き続けた。
泣き続けて、ひとまずの落ち着きを得た。
まだ時折鼻を鳴らしてはいるが、とりえあず大丈夫だろうといった状態になり、直子は曜を布団まで運ぶ。
「……雪花ちゃん。曜の体が弱いのは知っているかい」
「うん。それで鳥辺野村に来たって」
「体が弱いとは言うけどね。原因がはっきりしてるんだ」
「え?」
「私や雪花ちゃんと違って……曜は〝人間〟だ。混じってこそいるものの、間違いなく人間。だからこそ
昔から傾向はあったんだよ。でも今回の件で完全に目覚めてしまったという感じかね。と直子は呟いた。
「このまま放っておけば、曜はいずれ死ぬ」
「そんな……っ!」
「だからこそ、雪花ちゃんに頼みがあるんだ」