記憶とは不安定なものだ。脳という領域においても忘れられるというのに、抜き出して置いておけば、さらに消えやすい。
曜の記憶を思い出させるためにも、彼の記憶を保管する
異形の力とやらを施された彼女は、ぼんやりと
あいも変わらず闇闇しい見た目をしているが、どこか使命感に溢れている。自分がやらなければならないと触手を固くした。
「……ゾンビ?」
曜は小さく呟く。
異形を取り除いたはずの雪花は、どういうことかゾンビになっていた。
今にも腐り落ちそうな容姿は普通のものではない。
しかし他の人からしてみれば、きっと今までの雪花と外見は何ら変わりないのだろう。小学生にしては物知りな彼の頭に、哲学的ゾンビという言葉が思い浮かんだ。見た目は人間とまったく変わらず、それでいて中身は空虚な存在。
彼の考えていることを読み取ったのか、直子は苦笑する。
「心配しなくていいよ。あくまでも雪花ちゃんだ。曜に関する記憶はなくなったがね。いわば〝曜に出会わなかった草壁雪花〟だよ」
「……それがゾンビ?」
「菜々花ちゃんは肉塊だろう。肉塊とゾンビとで相性はいいんじゃないかねぇ」
どうなんだろう。
曜は首を傾げた。
やはり自分以外を異形として認識できないらしい雪花は、布団に横になっている自分の姿を眺めて、「……なんか変な感じ」と触手をうにょうにょさせている。
やがて曜の記憶を引き出す段階となり、さすがに彼も怖くなった。
だが妹分である雪花も耐えたのだ。
ここで兄貴である自分がビビってどうする、と男の子らしい覚悟で毅然とした表情を浮かべた。
「じゃあ曜、高校生になったら村までおいで」
「ちゃんと鳥辺野村に戻ってこられるかな」
「大丈夫だよ。たとえば菜々花ちゃんにお願いするとか、いろいろと方法はある」
「菜々花に?」
「あの子の記憶も矛盾が出ないようにする必要があるからね。でも完全に消す必要はない。〝小さい頃に遊んだ気がする男の子〟くらいの感覚になるはずさ。それくらいだったら一緒に村に連れてきてくれとお願いしたら、多分頷いてくれるだろう」
そうか、菜々花も――。
わかってはいたことだが、並々ならぬ思いを向けていた曜は胸が痛む。
でもいつか元通りになるはずだから。
僕がきちんと背負えるようになったら、全員に謝ろう。
曜は畳に横になった。
傍らに直子が佇み、怪しい雰囲気である。
「雪花ちゃん。私の立場でこんなことを言うのは申し訳ないんだけど、どうか曜をよろしくお願いします」
「任せて! 私がお兄ちゃんを守ります! ……それに、お姉ちゃんも自覚したら危ないからね。妹たる者お兄ちゃんとお姉ちゃんを守ってこそだよ」
緊迫感に満ちた、しかしどこか気の抜ける会話を聞きながら、曜の意識は深い深い闇のなかへと消えていった――。
◇
お茶請けに出された
今日も元気に闇の化け物をしている彼女は、ちょうどこの羊羹そっくりだ。
いや、妹ではなく――雪花か。
そういえば今まで彼女の名前を呼んだことがない。
もともと流産した妹の霊的なもの、だと思っていたのだ。両親に尋ねればわかったのかもしれないが、自分から率先して聞こうとは思えなかった。
鳥辺野村に訪れるということで隠れてついてきていたらしい雪花を眺めて、自分の鈍感さに辟易とする。
こうして記憶を取り戻してみると、なるほど彼女らには姉妹と思える特徴がある。
謎の触手とか。ちょっと馬鹿っぽい言動とか。
まぁ普通に失礼なので口にはしないが。
俺はお茶を一口すすり、緊張に乾燥した唇を湿らせる。
真摯な感情をそのまま込めて頭を下げた。
「雪花。本当にありがとう」
「……うんっ」
名前を呼ばれたのが嬉しいのだろうか。
雪花は喜色満面に涙を流した。
気がした。
おもむろに立ち上がった彼女は机を回り、俺の隣にまでやってきた。勢い盛んに跳躍し、向かう先は胸のなか。
小学生の頃もこんなことをしていたなぁ、と懐かしくなった。
大きさが全然違うのでそれなりに衝撃はあるけれども。
一応お兄ちゃん的なプライドで耐えた。
それを傍観していた祖母は何か目の端を擦ると――たった一瞬、雫の光が見えたのは気のせいだろうか――膝を正して口を開いた。
「曜……私を恨んでいるでしょう。苦労させてごめんなさい」
「恨んでる? いや別に」
「え……」
「俺はね、むしろ感謝してるくらいなんだよ。あーだこーだ言ってきたけど、化け物と一緒にすごすのは悪くなかった。化け物って呼び方は少し
それ以外に適した表現の方法がないのだから仕方ない。
少なくとも感謝こそすれ、責め立てるなどありえないのだ。
祖母の行動は俺を思ってしたことであるし、命の危険があったのである。放置すればそれこそ責められようが、考えて何かをしたのであれば、結果はどうであれ感謝されるべきだ。
まっすぐに向けた視線で理解したのだろうか。
彼女はしわしわの顔をさらにしわ深くさせると、流れる涙を隠すようにうつむいた。