目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

「頑張れよ」

 記憶を取り戻してみると、あらゆるものの見え方が変わってくる。

 田舎臭い風景も思い出のなかと照らし合わせてみれば、ノスタルジックな感傷が自然と湧き上がってきた。

 吐く息は白い。まるで冬の寒さに小さくなった雲がそこにあるように、しばらくの時間漂って消える。



 鳥辺野村には舗装された道路というのは――完全にないわけではないが――存在しないので、靴の底で砂粒を感じながら歩いていた。

 今まで忘れていた太郎のことを思い返す。

 理由はあったとはいえ、やはり彼のことを忘れていたのは申し訳ない。あれほど約束したにもかかわらず、本当に。



 居ても立っても居られず俺は墓場に向かっていた。

 夜の暗さは多少恐ろしい。けれども我慢ならなかったのだ。



 山の端のあたりまで歩いていくと、ひっそりと佇む墓石の群れが姿を表した。夜露に体を濡らしている。

 黒黒とした表面に冴え渡った空が映り、はっと息を呑むほど鮮明に月がこちらを眺めていた。

 もちろんそんなことはないのだが、どこか俺を責め立てているかのような印象を感じ、反射的に目をそらしてしまう。



 数秒ほど立ち止まった。

 まぶたを強く閉じ、開く。

 墓前に立つと「伊勢屋家之墓」と掘られた文字の奥に、わずかに苔が生えているのが見えた。管理を怠っている感じではない。むしろ、あえてそうしているかのようだった。



 俺は地面に膝を突き、そっと墓石を撫でる。

 存外にひんやりとした感触に笑みが浮かんできた。



「ごめんね、遅くなって」



 太郎の葬儀が行われてから、こうして墓場に来たのは初めてだ。

 儀式を行ってからすぐに納骨したのではなく、数週間ほど経ってから――つまり四十九日にしたらしい。

 その頃には俺は記憶を失っており、しかも鳥辺野村からすらもいなくなっていた。化け物との距離が精神的に遠くなったため、体調を崩すことがなくなっていたのだ。母親の妊娠の報もあり、鳥辺野村を出て一緒に暮らすことになった。



 ようやっと来ることができた。

 いつまでも墓石を撫で続けていても、太郎が「おいおい感傷に浸ってんなよ。俺は男に撫で回される趣味はないぜ?」とでも言いそうだったので、一分ほどでやめる。



 立ち上がって眺めてみると墓石は小さい。

 小学生の背丈ほどだろうか。

 ちょうど息を引き取ったときの太郎と同じくらいの。



「明るくなったらまた来るよ。取るものも取り敢えずに出てきたんだ。お供えするものとか何も持ってない」



 どこかからか抗議するような声が聞こえた気がした。

 思わず噴いてしまう。



「……もう二度と、俺は忘れないよ」



 踵を返し祖母の家へ向かう。結構な大きさの石を踏んだらしい。そこそこ厚い靴の底越しに、丸っこい鋭さを感じた。

 すると誰か・・が俺の背中を押した。つんのめって、たたらを踏む。

 しかし振り返っても誰もいない。何もいない。

 ただ存在感だけがある。

 あるいは確信か。



 俺は苦笑して、手を振りながら歩みを進めた。





















 昨夜はさまざまなことがあった。

 布団に入ってからも考え込んでしまい寝付けないと思っていたのだが、反対に気がついたら朝になっていた。

 自分でもわからないうちに疲れ果てていたらしい。

 それはそうか。あれほどのことがあったのだから。



 俺は布団を畳んで押し入れにしまう。

 使い古された埃と木の匂いに懐かしさを感じた。



 ふとした気配を察知し振り返ってみると、そこには妹が――雪花が立っている。



「あ、えと……おはよう」

「おはよう」

「もう朝ご飯できてるらしいよ。直子さんが言ってた」

「わかった」

「じゃ、じゃあ私は行くね」

「うん」



 どうにも距離感を測りかねているようだ。

 彼女はおずおずと触手を揺らして、ふすまの向こうに姿を消した。

 少し前までは近すぎるほどに近いパーソナルスペースを保っていたのに、今では数メートルの幅でもって会話している。



 少々残念な気持ちになりつつ、俺は着替えを始めた。

 祖母の証言によるとこれは祖父のものだったらしい。ところどころほつれがあるが、同時に縫い後もある。大事に使われていることがわかった。



 居間へ向かうと二人が座っていた。

「人」という数え方が適当が不明だが。

「匹」とかのほうがいいだろうか。明らかに化け物だし。

 片方は人形だけれども。



 背の低いちゃぶ台に朝食が置いてある。座布団に腰を下ろすと食べにくくなるほど、低いちゃぶ台である。

 俺を含めて三人となり、ともに「いただきます」と手を合わせた。

 黒塗りのお椀には湯気をあげる味噌汁が入っていた。溶かれた卵が味噌の流れといっしょに揺らいでいる。そっとお椀を持ち上げてみると、ときどき薄い玉ねぎが顔を見せた。



 静かにすする。鼻を刻まれたネギの香りが抜けていった。

 音を立てないように嚥下すると、食道を熱の塊が通っていくのを感じられる。

 胃に落ちた味噌汁は体の奥から、俺を温めてくれた。



「雪花」

「……んぇ!?」



 ちょうど焼き鮭を器用に箸でつまんでいた雪花は、こちらの突然の呼びかけに虚を突かれたのか、ひどく驚いたような声を出した。

 まるできゅうりを発見した猫だ。

 ビクついた闇の体は些細なトゲが生えている。

 可変式の体というのは反応によっても形を変えるらしい。



 驚かせるつもりはなかったので軽く謝罪した。

 彼女は咀嚼していた物を飲み込むと、



「な、なに……?」

「ありがとう」



 改めてお礼をした。

 昨日もしたが、それだけでは足りない。

 彼女の苦労を思えば――いや、苦労なんて言葉じゃ表せないくらいの、苦労を思えば。



 しばらくの間彼女は止まる。

 ご飯のうえに置いてある箸が、湯気によって濡れていた。

 それを眺めていると妹は覚悟を決めたようで。



「二度目だけど。……私も助けてもらったんだから、お兄ちゃんを助けるのは当然だよ。ううん、私がやりたかったの」



 祖母は空気のようになっていた。

 きっと雰囲気を読んでくれたのだろう。



 俺と雪花は見つめ合って――片方は目なんてついていないが――不器用に笑い合う。視線だけで会話をして、破顔した。



「雪花、卵焼き好き?」

「うん」

「じゃあ俺のあげるね」

「やった。私の大根おろしもあげる」

「それは雪花が嫌いなだけでしょ」

「違うよぅ美味しいけど心を痛めながらあげてるのぉ」

「遠慮しとくよ」



 ぎこちなくなっていた俺たちの間の関係が、ほんのりと柔らかくなった気がした。卵焼きを箸でつまんで彼女の皿に乗せる。

 ことさらに喜びを強調して見せて、彼女は大口で頬張った。



 こうして何年も前から繋がっていた俺たちの過去は、そのまま過去になって現在になったのである。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?