そのとき、部屋の扉を叩く音がした。
「ヴェルグ様。よろしいですか?」
「フィアか。遠慮するな、入れ」
保存食料から視線を外し、そう答える。すると聖剣の奴が嬉しそうにぱあっと瞬いた。
こいつ、いつの間にこんな感情豊かになっていたのか。それとも、「聖剣にティエラは畏怖する」なんて言ったから、気を遣っているのか。
フィアに続いて、ティエラがおずおずと部屋に入ってくる。
彼女の装いを見て、俺は軽く目を見開いた。
「ほお。これは」
「いかがでしょう、ヴェルグ様。あなた様の配下として相応しい衣装を見繕ってみたのですが」
心なしか浮かれた声で、フィアがティエラの背中を押す。
ティエラが着ているのは赤を基調とした上下だ。マントのようにたなびく外衣が、背中側でふたつに分かれている。確かあれは、テイルコートという奴だろうか。
柔らかな肉付きと控えめな性格を持ち合わせた彼女に相応しく、全体的にゆったりとした意匠である。
あの赤――おそらく俺の属性を意識してのことだろう。ティエラの金茶色の髪とともに、良く映えている。
おそらく着替えのときに身体を清めたらしく、土埃に汚れた身体は綺麗になっていた。
「いいじゃないか。とてもよく似合っている。見違えたぞ」
「あ、ありがとうございます」
世辞抜きで賞賛すると、ティエラは消え入りそうな声で縮こまった。
一方のフィアは、恥ずかしがるティエラと対照的にしきりに彼女の服装をアピールしてきた。まるで自慢の人形を見せびらかす勢いだ。
まったく。やっぱり子どもか、お前は。
俺はちらりと後ろを振り返る。
聖剣がきらきらと光をまき散らしていた。こいつも賞賛しているらしい。
「ルルスエクサも褒めているようだぞ」
「ほほう。聖剣もなかなか見る目があるのですね。ふふん」
「上機嫌だな、フィア」
「下心なしで服を純粋に褒められることなど、滅多にありませんので」
なるほど。機嫌がいいのはそのためか。
フィアはサキュバスの使命を渋々こなしていたという。ストレスも相当だったはずだ。もしかしたら、人間たちと接するプレッシャーも、お気に入りの服を身にまとうことでギリギリ耐えていたのかもしれないな。
「ヴェルグ様、もしよろしければ同じようなデザインの衣装を我らの『制服』としませんか?」
「なに?」
「今後、ティエラのようにヴェルグ様の配下へと加わる人間たちはどんどん増えていくでしょう。統一性を持たせれば皆の一体感も高まります。それに、衣装によって一目でヴェルグ様配下とわかれば、知能がほとんどない雑魚魔物はともかく高位の魔物や魔族は、ヴェルグ様との
「なるほど。それだけ我が領地に住む人間たちの安全性も保証されるというわけか。それはいいな。ああ、だがしかし……」
「在庫の問題ならご心配には及びません。私、人間の衣服に関する縫製知識と技術を修めております。細部へのこだわりこそが衣服の醍醐味。どうかこのフィアにお任せを。ふん」
「やる気満々で結構。……すまんなティエラ、この調子だとこれからもお前の着るものにはあれこれ口を出してきそうだ。悪いが付き合って――ティエラ?」
饒舌な右腕サキュバスに苦笑していた俺は、ティエラの異変に気付いた。
室内に入ってから愛想笑いを浮かべていた彼女。その表情がどこか青白い。
「どうした? 体調が優れないのか?」
「いえ……だいじょう――」
皆まで言う前に、ティエラの身体がぐらりと傾く。
「ティエラ!?」
俺の叫びも虚しく、彼女はその場に膝を突き倒れた。
かつての邪紅竜ヴェルグなら、それは勇者の撃退であり、勝利の合図。
だが今は違う。ティエラは我らの配下――仲間となったのだ。放っておくわけにはいかない。
俺が駆け寄るのとほぼ同時に、フィアがティエラの背中を支える。
「ゆっくり呼吸しなさい。力を抜いて」
「……ごめん、なさい。お姉様……ヴェルグさん……」
「謝る必要はない。フィア、お前は人間の治癒魔法に少し心得があったな。治療を頼む」
「今やっております」
「よし。ティエラよ、どこが苦しい? どこが痛い? もし呪詛の類であれば、我が炎で焼き払うこともできよう」
俺もフィアも、真剣に体調を伺う。
するとティエラは「あの……」と小さく口を開いた。俺たちは口元に耳を近づける。
しばらく逡巡があって、ティエラは言った。
「お腹、空きすぎて……」
「なに? 『おなかすきすぎて』? それは人間が使う暗号か?」
「ヴェルグ様、違います」
はー……と大きなため息をついて肩を落とすフィア。彼女の腕の中でティエラが真っ赤になりながら両手で顔を覆っていた。
しばし考え、俺はぽんと手を打つ。
「なるほど。空腹だったのか」
「うう……それで倒れるなんて、恥ずかしい……。すみません。こんなドジ、邪紅竜ヴェルグさんの仲間には相応しくないですよね」
「何を言うか」
俺は大真面目に応えた。
「食糧問題は我が領地において解決せねばならない大問題だ。ないがしろにすればどうなるかを、お前は身体を張って教えてくれたのだ。むしろ感謝するのはこちらだ」
「え……?」
「フィアの魔力増強と疲労防止の刻印があるからと油断してしまった。これは俺の落ち度である」
真っ直ぐ彼女を見ながら言う。するとフィアも同調した。
「私からも、ごめんなさいと言わせてください。ティエラ」
「お、お姉様まで……?」
「あなたにあんな苦しそうな顔をさせてしまった」
先ほどは安堵のため息をついていたフィアが、今はひどく落ち込んでいる。意外だったのだろう。ティエラは目を丸くしていた。
俺は、このフィアの表情に見覚えがある。
初めて【貪欲鑑定】を使ったあのとき――。
ティエラはサキュバスとしての本能と人間への慈愛の狭間で揺れ、苦しんでいた。
本心に反して人間を虐げていた頃の苦悩を思い出してしまったのだろう。
俺たちの顔を交互に見たティエラは、なぜか目尻に涙を浮かべた。
「どうした? 苦しいのか?」
「いえ。何だか、すごくダメだな私……って」
「ダメ?」
「ヴェルグさんたち魔族は、人間の食べ物がなくても大丈夫って前に聞いてて。きっと空腹の辛さはわからないだろうなあって、心のどこかで思ってたんです」
ティエラがフィアの手を取る。
「なのに、ヴェルグさんもフィアお姉様もすごく優しくて、思いやってくれて。私、感動するのと一緒に情けなくなっちゃって」
「俺はお前をダメだとは一切思っていない」
俺が言うと、ティエラは小さく笑った。
彼女の手をフィアが握り返す。
「ティエラ。いつから食事を摂っていないのですか?」
「えと。ここのところはろくなものが食べれてなくて」
「それなのにあの姉妹の言いなりで荷馬車になっていたのですか。まったく、あなたという子は」
ため息をついたフィアが、俺を見る。俺は頷いた。
「待ってろティエラ。すぐに腹に入れられるものを用意してやる」