そのとき、「ヴェルグ様」とフィアが俺を呼んだ。彼女は搬出に備え、ブエルに防護魔法をかけていたところだった。
ティエラとともにベッドに近づく。薄らと紫色の輝きをまとったブエルは、最初に見たときよりも顔色がよくなっているように見える。
「治療は順調のようだ。さすがフィアだな」
「どうも」
返事が素っ気ない。見ると、フィアは難しい顔をしていた。ティエラが心配そうに尋ねる。
「お姉様、もしかして何かよくないことが……?」
「いいえ。すこぶる順調よ。
「どういうことだ」
フィアは小さく息を吐くと、魔法をかける手を止め、俺を見上げた。
「ヴェルグ様。このブエルとかいう人間の青年、妙です。私の魔法が
「本当なら効きが悪いはずの魔法が想定以上に効いている……つまり、魔族の血を秘めているということか。こいつが」
「あるいは、外部からの強力な魔族の干渉を受け続けているか」
フィアはおもむろに、爪でブエルの指先を軽く裂いた。ぷっくりと湧き出る血の色は、人と同じ鮮やかな赤。だが、血はあっという間に止まり、さらには蒸発した。傷はすでに塞がりつつある。
「ご覧のように、すでにこの者の身体は通常の人間とは異なる特徴を見せ始めています。明らかな致命傷だったのに、わずかな時間の治療でここまで回復した。何らかの外的要因があると考えるべきです」
「なるほど。それに、仮にこいつ自身に問題がなかったとしても、これほどの能力を秘めた騎士に瀕死の重傷を負わせた何者かが野放しになっていることになる。それはそれで看過できん」
わかった、と俺は頷く。
「【貪欲鑑定】を使う。何かわかるかもしれん」
俺は魔力を解放した。固唾を呑むティエラたち、素朴な調度品。それらがモノクロに染まる。時が引き延ばされる。
『【貪欲鑑定】が発動しました。過去の映像を投影します』
光の粒がそんなメッセージを寄越してくる。
直後、眼前に別の場所が映し出された。しかし、ひどく見えづらい。まるで無数にヒビの入った鏡を覗き込むような不鮮明さだ。
それでも、ぼんやりとではあるが映っているモノがわかった。
周辺は橙と薄緑に色分けされている。緑は草地か。橙は……土の地面? いや、違う。
その中心に立つ『何か』。
それは人間なのか、獣なのか。
二本の足で立つ、ヒト型の雄々しい何かだ。
不鮮明な中でも強烈な存在感を放っているのが伝わってくる。あれは、間違いなく王の器だろう。
こしゃくな。ブエルは、俺や先代陛下以外の王とまみえているというのか。
こやつがフィアの言う『外部から干渉している魔族』であれば、只者ではない。
おそらく画面の不鮮明さも、相手の強力な魔力が影響しているのだろう。
もっとよく見ようと意識を集中させる。だが、例によって【貪欲鑑定】は俺の意を汲んでくれない。
場面ががらりと変わる。
今度は一転して鮮明な映像だった。
小さな光源がいくつか見える地下空間だ。洞窟にしては、壁も床も平らに整えられている。
床に膝を突いて何かを調べているのは、ブエルだ。
真新しい騎士の鎧を身につけている。やはりブエルは騎士で間違いないようだ。
その背後。
おもむろに近づいてきた別の騎士が、剣を構える。
俺は心の中で眉をひそめた。まったく気負いがない。軽く準備体操するか程度の気安さ。無駄がない。狙いはブエルなのに、そこに殺気や緊張の類は一切ない。
そのまま、滑らかな剣筋でその騎士は剣を振り下ろした。
鮮やか――の一言である。
間違いなく卓越した技量の持ち主だ。俺の元に攻め入ってきた勇者の中でも指折りであろう。
その腕があればブエルの首を一撃で落とすこともできただろうに、それをしなかったのは慈悲か、あるいは真逆の嗜虐か。
もしこの男が勇者として俺の前に立ち塞がってきたならば、俺は手加減できる自信がない。
確かに強いだろう。だがそれ以上にその佇まいに虫唾が走る。
騎士の横顔が一瞬だけ映った。
そいつは実にリラックスした表情で何かを呟いていたが、【貪欲鑑定】はその内容まで明らかにしてくれなかった。
映像が光の粒となって霧散する。景色に色が戻り、時間が再び動き出す。
俺は目を閉じ、大きく息を吐いた。重いため息だった。
「ど、どうでした……?」
ティエラが恐る恐る尋ねてくる。俺はもう一度嘆息してから答えた。
「こいつは、俺たちが思っている以上に厄介なことに巻き込まれているようだな」
「す、すでにこんな酷い怪我をしている段階で大変なのでは……?」
「ま、それもそうだ。【貪欲鑑定】で見えたことだが――」
そう言って、目にした光景を2人に説明する。
ティエラは顔面蒼白になり「そんな。ひどい」とショックを受けていた。眠るブエルを気遣わしげに見る。
一方のフィアは冷静だった。
「人間たちの内輪揉めですか。よくあることですね。くだらない」
にべもない。俺も同感だ。
ただ、くだらないと吐き捨てた後のフィアの表情が気になった。
わずかに眉間に皺を寄せ、唇を噛みしめている。不快感だけではない。何か思い悩んでいるように見える。
俺の視線に気付いたフィアが、自嘲するように言う。
「実は以前、襲ってきた人間を気まぐれで見逃したことがありました。そいつらも騎士の紋章を身につけていた。もし、あのとき徹底的に痛めつけていれば……いえ、物言わぬ身体に変えていれば、こんな事態にはならなかったかもしれません」
攻撃的なセリフに反して、口調は苦しげである。
フィアらしい、と俺は思った。
サキュバスとしての彼女はずっと、人間との距離感に悩んできた。あいていに言えば
ならば、俺はフィアに伝えなければなるまい。
「考えすぎだ、フィア。お前の責任じゃないし、今回の黒幕がそいつと関係があるわけでもない。その後悔はお前の慈悲と優しさの表れ。無理に否定することはなかろう」
「ヴェルグ様……」
「とにかく、これでますますここに置いておくわけにはいかなくなった。ブエルの搬出を急ぐぞ」
俺はそう言って、ブエルの身体を抱え上げた。
場合によってはこの青年の処遇、我が領地の再建に大きく影響を与えるかもしれない。そんな予感を抱いた。