――それからも凪のような平穏な道程が続いた。
自分の口で決意したせいか、ブエルの迷いは薄れているように見える。上体を起こし、ティエラとぎこちない雑談を交わせるまでになっていた。
ティエラは「怪我人が元気になった」と純粋に嬉しそうだ。隣のフィアは変わらずむっつりと黙り込んでいる。
推測するに……ティエラを取られてくやしい、といったところだろうか。いやはや、俺も細かな感情の機微を察することができるようになってきた。喜ばしいことだ。
一応、正解を求めてフィアに直接尋ねてみたら、巨大な火球で返事があった。危ない。
「やはり、あなたたちは一体何者なんだ」
再び警戒モードに突入する青年騎士。俺は肩をすくめた。
答える代わりに、顎をしゃくって前を示す。
「ほら。見えてきたぞ。あれが目的地で、我らの拠点だ」
「あ、あれって」
怪訝に目を細めたブエルは、直後に冷や汗を浮かべながら目を大きく見開いた。
岩壁の中腹にそそり立つ、雄々しくも流麗な我が居城を指差してブエルは叫ぶ。
「紅竜城!! 紅の大地を治める邪紅竜がいる城じゃないか!?」
「いかにも。よく知ってるな」
「そ、それは絵図が部隊内で共有されてるから。それじゃあ、あなたは魔王四天王のひとり……!?」
「いかにも。俺は邪紅竜ヴェルグである。今は騎乗中ゆえ、本来の竜形態で挨拶ができん。すまんな」
俺はいつも通りの口調で言う。
対するブエルは、激しくショックを受けた様子だった。咄嗟に武器を探す仕草をする。この辺りは、さすが年若くても聖風騎士団の一員だと俺は感心した。
荷台の片隅に置かれた鎧を見つけたブエルは、それに手を伸ばす。そこへティエラが立ち塞がった。
「ダメですよ、ブエルさん! ヴェルグさんはあなたを傷つけたりしません。むしろ、あなたを助けてくれたんですよ!?」
「それは。でも!」
「混乱するのはわかります。ですがどうか、落ち着いて下さい」
ティエラが必死に宥める。
正直、ティエラがここまで庇ってくれるとは思ってもみなかった。感慨深い。
隣で「ヴェルグ様とティエラをここまで困らせるなんて」などと臨戦態勢なフィアを牽制しつつ、俺はブエルを見た。
目が合う。
ブエルは手を震わせながら、俺を見上げていた。その瞳からはひどく混乱している様子がわかった。
同じ騎士に裏切られたこと。
俺に助けられたこと。
一度は俺についていく決断をしたこと。
あとは、純粋な恐怖か。
それらがない交ぜになっている。
大怪我から目を覚ましたばかりの人間には、この精神状態はさぞ辛かろう。
本来、人間の敵であることには違いない邪紅竜の俺。ブエルの心を癒す言葉など持ち合わせていない。それができると考えるのは傲慢というものだろう。
――が。
ひとつだけ、俺でも言えることがある。
「ブエルよ。ひとつだけ約束しよう」
「え?」
「お前がもし、体内に宿る魔の存在に飲み込まれたときは、俺が対処しよう。お前が仲間と思う人間に、お前が危害を加える前に、俺が止めてやる」
ブエルが目を丸くする。
俺は右の口角を引き上げた。
「お前の前にいるのは魔王四天王、邪紅竜のヴェルグだぞ? 魔族に墜ちた人間のひとりやふたり、どうとでも対処してみせよう。もっとも、お前が我が庇護下にあるうちは、そんな事態にはさせないがな」
「邪紅竜……」
「まあ、そういうことだから、怪我人は怪我人らしく、大人しくしていろ。もう五体が満足になったなら、力を貸せ。それでよいな?」
しばらく返事はなかった。ブエルはぽかんとした表情のまま、固まっている。
ただ、奴の手の震えは止まっていた。
ふと、ブエルが小さく笑った。
「おかしいな。あなたはまるでリエーレ大隊長のようだ。器が広くて、寛大で、強い」
「光栄――とは言わんぞ。そういう人間を、俺は何人も見てきたからな。軽々しく彼らの名誉にただ乗りする気にはなれん」
そう答えると、ブエルは大きく息を吐いた。
彼は再び居住まいを正すと、小さく頭を下げた。
「しばらく、お世話になります。
「うむ」
俺は鷹揚に頷いた。陛下呼びなんていつ以来だろうなと考える。紅竜城にいた魔物どもは、どいつもこいつも俺をないがしろにしてくれたからな。人間の方が敬意が持って接するなんて、どうかしている。
すると、何を思ったかティエラが身を乗り出した。
「やっぱりブエルさんは、リエーレ様をご存じなんですね! あの、リエーレ様はお元気ですか? 今度コンクルーシ魔法学園に慰問に訪れると聞いて、楽しみにしていたんです。またお話できればいいなって」
「お話って……。えと、ティエラちゃんは大隊長殿とお知り合いなの? 僕だってまだ話をしたことがないほど雲の上の存在なんだけど」
「はい! 私の叔母さまがリエーレ様と親しくて。私ともよく話し相手になってくださったんです」
そう屈託なく言うティエラに、ブエルは「信じられない」という顔をした。
「邪紅竜ってだけでも驚きなのに、あのリエーレ大隊長と親しい人間まで囲っているなんて」
「ヴェルグ様がどれほど素晴らしいお方か、理解しましたか? 人間の騎士よ」
少々棘のある口調でフィアが言う。「ますますわからなくなった」とブエルは小さくぼやいていた。
――城下の開拓地まで戻ってきた。
眼前に広がる水場と花畑に、ブエルは再び目を丸くした。
「まさか紅の大地にこんな豊かな土地があるなんて」
「これを広げるのが、当面の我が野望だな」
「あの悪名高い邪紅竜の野望が、土地の開拓……?」
「信じられぬか?」
悪戯っぽく尋ねると、ブエルは視線を外した。
畑の傍らに荷馬車を停め、積み荷を降ろす。さすがに城の正面玄関に続く急登は、アムといえでも難儀する。
するとブエルが無言で手を貸してきた。怪我人なのだから大人しくしていればよいのに。基本的に律儀で真面目な男なのだろう。
「ティエラちゃん。これは僕が運ぶよ。騎士だし。男だし」
「え? でもこれくらいなら大丈夫ですよ。土属性魔法で――ほら」
「――!? ち、力の使い方が上手いんだね」
目の前で倍の量を軽々と運ぶ様を見せつけられ、ブエルは引き攣った表情になっていた。
まあ、ティエラは紅の大地を人力馬車となって踏破した剛の者だ。このくらいは朝飯前なのかもしれない。
ブエルの奴、そこはかとなく傷ついたようにも見える。もちろんティエラは気付いていない。同年代の人間の仲間が増えて浮かれているようだ。
ふと思いついて声をかける。
「ブエル。湯治に温泉はどうだ。ほれ、そこにあるだろう。地下の聖なる魔力を秘めた温泉だ。人間には効くのではないか?」
「お、温泉があるんですか!?」
「ティエラも入浴済みだから安心せよ」
「ティ、ティエラちゃんがここに入浴!?」
「ヴェルグさん!?」
なぜかブエルもティエラも顔を真っ赤にした。ブエルなど負傷箇所でもないだろうに鼻から血を流している。
俺は右腕たるサキュバスに尋ねた。
「こやつらはなぜ赤くなっている?」
「知ってますが知りません」
にべもなかった。