エドモウトワームに、ピドーインプ。度重なる魔物の急襲に、第二大隊が少なからず被害を被った。それを踏まえて、今後どうするかを考えるのは、副長として当然の責務である。
リエーレは伝令役の騎士をちらりと見た。
まだ若手のその騎士は、あらかじめどんな指示が下るかわかっていると言いたげに、引き締まった表情をしている。おそらく、「再出発の準備を急がせろ」と命令されるものと考えているのだろう。
隊長であり稀代の騎士リエーレ・アミシオンがいつもどおりであれば、その予想通りの指示を下せたに違いない。
リエーレは表情と口調の維持に全力を注ぎながら、告げた。
「少し考える。態勢を整えておけ」
「はっ! ……は?」
騎士にとっては予想外の指示だったのだろう。小気味よく返事をした直後、思わず呆けた表情で聞き返してしまった。
リエーレはその失態を責めず、騎士を副長たちへの伝令に向かわせた。この指示が再び部下たちを不安にさせることを理解していたが、今はそれ以外に言えることがなかった。
再び、天幕内がリエーレとシシルスのふたりだけになる。
するとシシルスが直立不動で敬礼した。
「リエーレ様。諌言をお許しください」
「構わない。何だい?」
「撤退すべきです」
端的に、だが重い言葉を告げる。
リエーレは予想していたのか、それとも「そう言われても仕方ない」と考えているのか、表情を変えずに腹心の部下を見つめる。
逆にシシルスの方が余裕のない顔になった。
「不意打ちを二度も受け、第二大隊全体が動揺しています。もともと、この時期の進軍は予定されていませんでした。今からでも全隊に撤退を指示すべきです。その方が、リエーレ様のためにも……」
「シシルス。私を心配してくれるのか。やはり、優しいな君は」
「そうです。私は心配なのです。リエーレ様の今のお顔が。今の心持ちが」
シシルスはリエーレの手を取る。その温かさに、リエーレは逆に傷ついた。
部下の思いは純粋だ。シシルスは「今のリエーレには誰もついてこない」とは口にしなかった。本心がどうであれ。
諌言と称したのは、リエーレが撤退の決断を少しでもしやすくするためだろう。
部下にここまで気を遣われるとは、とリエーレは自嘲した。他人の善意に勝手に傷ついてしまう自分は、重症だとさえ思った。
だが、確かにシシルスの言うとおり、撤退することも選択肢である。冷静に考えて、予定外の進軍に予定外の補給物資喪失が重なるのは深刻だ。
ましてや、相手はあの魔王四天王なのだから。
リエーレがシシルスの手を握り返し、立ち上がる。
そのときだった。
天幕の外が騒がしい。
リエーレの表情がさっと険しくなる。それを見て取ったシシルスが、先んじて天幕の外に出た。近くを行き交う騎士のひとりを捕まえて、「何事か?」と問いかける。
騎士は緊張した面持ちで答えた。
「ご命令通り、進撃に備えて急遽準備を進めております!」
「何だと? リエーレ隊長はそのような命令など出していないぞ」
「え? いや、しかし」
「隊長のご命令は『態勢を整えて待機』だ。今一度確認してこい」
「わ、わかりました!」
気色ばむシシルスに、騎士は慌てて踵を返していく。
その後ろ姿を、天幕から出たリエーレも目撃していた。
彼女は改めて隊の様子を見回す。
リエーレの待機命令が出ているにもかかわらず、部隊全体が慌ただしく動いている。明らかに命令が正しく伝わっていないか、あるいは誤った情報が広まっているのだ。
伝令役の騎士がそうだったように、リエーレならば躊躇なく進撃を選択すると思い込んでいる騎士たちは、動きに迷いがない。
一方、ごくわずかではあるが、戸惑ったように立ち尽くす騎士もいた。おそらく、伝令役からの指示を漏れ聞いた者たちだろう。
かつて精強を誇った第二大隊は、ほんの些細なきっかけから綻びを見せ始めていた。
リエーレは唇を噛む。
(どのような理由であれ、この失態を許したのは私の責任だ)
腹の奥がキリリと痛む感覚。眉間に皺を寄せるリエーレ。
次々と襲いかかる重圧が、一度は持ち直した彼女の精神を再び削り、ささくれ立たせていく。
それでも、これまで隊を率いてきた責任感――あるいは、惰性――に突き動かされ、リエーレは再度命令を発出して引き締めを図ろうとする。
――だが。
事態はまたも、リエーレを追い詰める方向に動いた。
「な、何だ」
「これは……霧? どうしてこんな乾いた土地に、霧なんて」
進撃準備に奔走していた騎士たちが次々と足を止める。
どこからか、薄く青白い霧が立ちこめてきたのだ。それは瞬く間に第二大隊全体を包み込んだ。
リエーレとシシルスの周囲も、その霧に包まれる。
霧があっても視界を完全に奪うほどではない。冷静に周囲を見渡せば、近くの騎士は十分視認できる程度だった。
だがやはり、霧はただの自然現象ではなかった。
「うわっ!?」
「お、おい!? 何をする!」
「おおおおおっ!」
突然、複数の場所で声が上がった。緊張をはらんだ気合いの叫びと、戸惑いの声。金属がぶつかり合うような音も響いた。
「ど、同士討ちだ!!」
誰かが叫ぶ。
その声はリエーレたちの耳にも届いた。
シシルスはリエーレを庇うように立つと、自らも剣を鞘から抜き放った。同時に声を張り上げる。
「幻覚攻撃だ! 総員、意識を保て! 操られた者を複数名で取り押さえろ!」
シシルスの指示が部隊内で伝播していく。
ハッとした騎士たちが、各々行動を取った。ある者は意識を集中し、ある者は幻覚にかかった仲間の動きを封じ、目を覚まさせた。
瞬く間に部隊の動揺は収まっていく。
どうやらこの霧の幻覚効果はそれほど強くないらしい。気をしっかり保っていれば、簡単には惑わされない。
部下たちを見てそう確信したシシルスは、リエーレに報告する。
「リエーレ様、部隊の損害は軽微です。動揺からも立ち直りました。改めて皆に指示を。――リエーレ様?」
振り返るシシルス。
そして目を見開く。
どこか虚ろな瞳のリエーレが、隊長の証である美しい長剣を抜き放つ。その剣の切っ先は、シシルスに向けられていた。