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第50話 追い詰める霧

 エドモウトワームに、ピドーインプ。度重なる魔物の急襲に、第二大隊が少なからず被害を被った。それを踏まえて、今後どうするかを考えるのは、副長として当然の責務である。


 リエーレは伝令役の騎士をちらりと見た。

 まだ若手のその騎士は、あらかじめどんな指示が下るかわかっていると言いたげに、引き締まった表情をしている。おそらく、「再出発の準備を急がせろ」と命令されるものと考えているのだろう。


 隊長であり稀代の騎士リエーレ・アミシオンがいつもどおりであれば、その予想通りの指示を下せたに違いない。

 リエーレは表情と口調の維持に全力を注ぎながら、告げた。


「少し考える。態勢を整えておけ」

「はっ! ……は?」


 騎士にとっては予想外の指示だったのだろう。小気味よく返事をした直後、思わず呆けた表情で聞き返してしまった。

 リエーレはその失態を責めず、騎士を副長たちへの伝令に向かわせた。この指示が再び部下たちを不安にさせることを理解していたが、今はそれ以外に言えることがなかった。


 再び、天幕内がリエーレとシシルスのふたりだけになる。

 するとシシルスが直立不動で敬礼した。


「リエーレ様。諌言をお許しください」

「構わない。何だい?」

「撤退すべきです」


 端的に、だが重い言葉を告げる。

 リエーレは予想していたのか、それとも「そう言われても仕方ない」と考えているのか、表情を変えずに腹心の部下を見つめる。

 逆にシシルスの方が余裕のない顔になった。


「不意打ちを二度も受け、第二大隊全体が動揺しています。もともと、この時期の進軍は予定されていませんでした。今からでも全隊に撤退を指示すべきです。その方が、リエーレ様のためにも……」

「シシルス。私を心配してくれるのか。やはり、優しいな君は」

「そうです。私は心配なのです。リエーレ様の今のお顔が。今の心持ちが」


 シシルスはリエーレの手を取る。その温かさに、リエーレは逆に傷ついた。

 部下の思いは純粋だ。シシルスは「今のリエーレには誰もついてこない」とは口にしなかった。本心がどうであれ。

 諌言と称したのは、リエーレが撤退の決断を少しでもしやすくするためだろう。

 部下にここまで気を遣われるとは、とリエーレは自嘲した。他人の善意に勝手に傷ついてしまう自分は、重症だとさえ思った。


 だが、確かにシシルスの言うとおり、撤退することも選択肢である。冷静に考えて、予定外の進軍に予定外の補給物資喪失が重なるのは深刻だ。

 ましてや、相手はあの魔王四天王なのだから。


 リエーレがシシルスの手を握り返し、立ち上がる。


 そのときだった。

 天幕の外が騒がしい。


 リエーレの表情がさっと険しくなる。それを見て取ったシシルスが、先んじて天幕の外に出た。近くを行き交う騎士のひとりを捕まえて、「何事か?」と問いかける。

 騎士は緊張した面持ちで答えた。


「ご命令通り、進撃に備えて急遽準備を進めております!」

「何だと? リエーレ隊長はそのような命令など出していないぞ」

「え? いや、しかし」

「隊長のご命令は『態勢を整えて待機』だ。今一度確認してこい」

「わ、わかりました!」


 気色ばむシシルスに、騎士は慌てて踵を返していく。

 その後ろ姿を、天幕から出たリエーレも目撃していた。

 彼女は改めて隊の様子を見回す。

 リエーレの待機命令が出ているにもかかわらず、部隊全体が慌ただしく動いている。明らかに命令が正しく伝わっていないか、あるいは誤った情報が広まっているのだ。


 伝令役の騎士がそうだったように、リエーレならば躊躇なく進撃を選択すると思い込んでいる騎士たちは、動きに迷いがない。

 一方、ごくわずかではあるが、戸惑ったように立ち尽くす騎士もいた。おそらく、伝令役からの指示を漏れ聞いた者たちだろう。


 かつて精強を誇った第二大隊は、ほんの些細なきっかけから綻びを見せ始めていた。

 リエーレは唇を噛む。


(どのような理由であれ、この失態を許したのは私の責任だ)


 腹の奥がキリリと痛む感覚。眉間に皺を寄せるリエーレ。

 次々と襲いかかる重圧が、一度は持ち直した彼女の精神を再び削り、ささくれ立たせていく。


 それでも、これまで隊を率いてきた責任感――あるいは、惰性――に突き動かされ、リエーレは再度命令を発出して引き締めを図ろうとする。


 ――だが。

 事態はまたも、リエーレを追い詰める方向に動いた。


「な、何だ」

「これは……霧? どうしてこんな乾いた土地に、霧なんて」


 進撃準備に奔走していた騎士たちが次々と足を止める。

 どこからか、薄く青白い霧が立ちこめてきたのだ。それは瞬く間に第二大隊全体を包み込んだ。

 リエーレとシシルスの周囲も、その霧に包まれる。


 霧があっても視界を完全に奪うほどではない。冷静に周囲を見渡せば、近くの騎士は十分視認できる程度だった。


 だがやはり、霧はただの自然現象ではなかった。


「うわっ!?」

「お、おい!? 何をする!」

「おおおおおっ!」


 突然、複数の場所で声が上がった。緊張をはらんだ気合いの叫びと、戸惑いの声。金属がぶつかり合うような音も響いた。


「ど、同士討ちだ!!」


 誰かが叫ぶ。

 その声はリエーレたちの耳にも届いた。

 シシルスはリエーレを庇うように立つと、自らも剣を鞘から抜き放った。同時に声を張り上げる。


「幻覚攻撃だ! 総員、意識を保て! 操られた者を複数名で取り押さえろ!」


 シシルスの指示が部隊内で伝播していく。

 ハッとした騎士たちが、各々行動を取った。ある者は意識を集中し、ある者は幻覚にかかった仲間の動きを封じ、目を覚まさせた。

 瞬く間に部隊の動揺は収まっていく。

 どうやらこの霧の幻覚効果はそれほど強くないらしい。気をしっかり保っていれば、簡単には惑わされない。

 部下たちを見てそう確信したシシルスは、リエーレに報告する。


「リエーレ様、部隊の損害は軽微です。動揺からも立ち直りました。改めて皆に指示を。――リエーレ様?」


 振り返るシシルス。

 そして目を見開く。


 どこか虚ろな瞳のリエーレが、隊長の証である美しい長剣を抜き放つ。その剣の切っ先は、シシルスに向けられていた。



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