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第52話 空になったコップ


 ――聖風騎士団第二大隊は、慌ただしく動き出した。

 グレフを中心とする騎士たちが、いまだ動揺を隠せない同僚たちを説き伏せ、あるいは「呆けている場合か」などと威圧し、再編を急ぐ。


 平行して、リエーレの元に残す騎士の人選も進められた。こちらは、まるであらかじめリストアップされていたかのようにスムーズに決定する。


 結果、リエーレの部隊として配置されたのはおよそ30名足らず。部隊全体の40分の1ほどの小隊規模であった。

 彼らが見据える中、再編をそこそこに切り上げたグレフは、紅の大地を統べる支配者、邪紅竜の拠点へと進軍を再開したのだった。


 静かになった荒野に、寒風が吹く。


「リエーレ様。こちらをお飲みになってください。少しは気が休まりましょう」

「……ありがとう」


 シシルスが差し出した金属製のコップを力なく受け取るリエーレ。コップの中には、干し果物を湯で戻した果実湯が揺れていた。少しでも甘くてホッとするものを、とシシルスが配慮したものだ。


 リエーレはほのかに甘い香りのする果実湯を一口飲み、ほうと小さく息を吐いた。

 まるで極寒の地から帰還した兵のようだ――と彼女の姿を見ながらシシルスは思った。


 シシルスは、自分用にも作った果実湯をぐいと飲み込む。本当は酒をあおりたい気分だった。


 リエーレ対グレフの結果は、シシルスでなくても大きなショックを受けるのに十分であった。あのリエーレが、武技と魔法の両方で敗れたのだ。幻覚魔法の影響は大きかったとはいえ、彼女のそんな姿は見たくなかったというのが、皆の本音。


 そしてまた、予想外の事態ひとつで、あれほど精強を誇っていた第二大隊がこんなにもあっさり分裂するとは思ってもみなかったというのが、皆の偽らざる本心であった。


 シシルスは、一番身近にリエーレを見ていた人間として己を悔いていた。

 もっと早くリエーレの異変に気付くべきだったと。

 もっと強く撤退を進言すべきだったと。

 もっと身体を張ってリエーレを止めるべきだったと。グレフとの対決を避けるために。


 リエーレは果実湯片手に、じっと小手を見つめている。その表情は、まるで夢に浮かされているかのように覇気がない。

 シシルスは天を仰いだ。重大で、かつ完全に失念していた事実を思い出したのだ。


 リエーレ・アミシオンは、まだ21歳である。


 他の騎士たちなら、せいぜいが中堅に足を踏み入れた程度である。

 剣術、知力、魔法力。それらは鍛えられ、大隊長に相応しいレベルにあったのだろう。

 カリスマ性。それは持って生まれた天賦の才であろう。

 しかし、精神力は?

 普段の凜々しい大隊長としての姿は、リエーレという一人の女性の精神力を削って成り立っていたのではないか?


 間違いなくリエーレは勇者と称えられてしかるべき傑物だった。

 彼女を追い詰めてしまったのは、自分たちだ。


 その思いは、ここにいる多くの騎士たちの共通したものだった。


 一方のリエーレ。


 彼女はグレフから下げ渡された小手を見つめながら、今日何度目かの後悔と自虐に打ちのめされていた。


 どうしてこうなった?

 どこで間違えた?

 どこを正すべきだった?


 自分を責める言葉が次々と浮かんでは消え、そのたびに彼女の心はすり減っていった。


 無意識に、果実湯を口に含む。

 口内に、喉に、胃に、温かさを感じた。


「きっかけは、アレか」


 無意識のうちに、呟きが漏れた。


 エドモウトワームによる、最初の襲撃。後方の補給部隊が大打撃を受けた際、壊れてしまったリエーレ愛用の鏡。

 思えば、あの鏡を失ったと理解したときから、歯車が狂い始めた。


 たかが鏡だ。

 それが一枚割れたくらいで、おかしくなるはずがない。

 だが――自分はおかしくなった。間違いなく。

 もしかしたら、すでに自分の精神は限界にきていたのかもしれない。ひとりきりの天幕で、誰にも言えない醜態をさらし続けて、ようやく心の均衡を保っていた。


 ギリギリだったところに、最後の一押しがなされた。その結果が今だとしたら。


 リエーレは――血の気が引くのを感じた。

 ついさっき口にした果実湯の温かさが吹き飛ぶ。


 今の自分は抑えが効かない。

 もしこのまま、自分の本性を抑えきれずに爆発してしまったら、今度こそ居場所を失ってしまう。

 巨大な失望と怒りに押し潰されてしまう。


 どうすればいい。

 どうすれば、ここから立て直せる?


 コップを口に傾ける。

 しかし、すでに中身は空だった。


 それを見たとき、リエーレの中で何かが閃いた。


 ――そうだ。すべてを空っぽにしてしまえばいい。

 失望と怒りに怯える自分を完全に壊して、『無』になってしまえばいいのだ。


 リエーレはコップを置いた。

 そして、グレフの与えた小手に手を伸ばす。彼女はそれをいつもの手つきで身につけた。まず左手、次に右手。


 側にいたシシルスが目を見開く。

 この小手は、リエーレにとっては屈辱と屈服の証だと思っていたからだ。


 リエーレは立ち上がる。

 五感が、どこか遠くにあるように感じた。夢の中を歩いているような非現実感に包まれる。すると、不思議と前を向くことができた。

 さっきまでは申し訳なくて、情けなくて、とても正面から見られなかった部下たちの顔を、しっかりと見据えることができた。


 これなら、私はまだ大隊長でいられる。大隊長としての振る舞いは、身体が覚えている。


 リエーレは言った。


「皆。聖風騎士団第二大隊隊長、リエーレ・アミシオンとして命じる。これより我らは、総力を持って紅竜城へ突撃する」

「リエーレ様!? 何をおっしゃるのです!?」

「グレフ副長が本隊を率い対峙しているうちに、我らがこの地の支配者、邪紅竜を打ち倒すのだ」


 リエーレの途方もない決断に、シシルスたちは息を呑んだ。



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