――その頃。
聖風騎士団第二大隊をほとんど掌握したグレフは、順調に部隊を進めていた。
「グレフ副隊長。魔物の掃討、完了しました」
「ん。ご苦労さん。じゃ、進もうか」
部下からの報告を受けたグレフは鷹揚に頷く。
リエーレが離脱するという不測事態に、一時は大きく乱れた第二大隊。しかし、侵攻していくうちに落ち着きを取り戻していた。
もともと、第二大隊は精鋭揃いである。紅の大地の野良魔物程度であれば、多少数が多くても対処は可能だ。
自分たちの力量に、騎士たちも自信を取り戻したのである。
隊を率いるグレフが、いつも通り落ち着いた態度を崩さなかったことも大きかった。
ただ、「リエーレ隊長のもとに援軍を送るべきだ」という進言については、グレフは徹底的に無視した。
若干の未練を感じつつも、騎士としての本分を果たすために前へ進んでいる――それが、今の第二大隊の状況であった。
何度目かの大休止のときである。
そろそろ今日の野営地を作ろうかというとき、ひとりの騎士がグレフに尋ねた。
「あの、副隊長殿。少々よろしいですか」
「んー? なんだい」
「現在の進路についてなのですが、これで本当に問題ないのでしょうか」
ベテランの年齢であるその男性騎士は、地平を見据えた。第二大隊の進行方向には、遠く岩山の連なりが見える。
「私は以前、別の隊で紅竜城への強硬偵察の任務に就いていました。その当時と、ルートが大きく異なるように思うのですが」
「まあ、そうだねえ。でもさ君。その強硬偵察とやらは無事に成功したのかい? 君がいた当時はさ」
「それは」
ベテラン騎士は口ごもる。彼が所属していた隊は、当時、紅竜城を遠くに認めるところまでは到達したが、結局、城に入ることはできずに撤退していた。
苦い思い出に唇を噛むベテラン騎士の肩を、グレフは気安くバンバンと叩いた。
「すまん。君の働きを揶揄するつもりはなかったんだ。しかしだな、相手はあの邪紅竜。これまでと同じ方法ではダメだと俺は思ったわけさ」
「はあ……」
「安心しなよ。事前にこの地を調査した結果、この先に邪紅竜を打ち倒す切り札があることがわかった。俺たちはまずそこへ向かう」
「邪紅竜を倒す切り札!? そ、それはいったい」
「まだ秘密。なにせ相手はあの邪紅竜だからね」
グレフは片目を閉じる。
副隊長が自ら隊を率い、紅の大地の探索に向かったのは隊の中では共有された情報だ。
半信半疑ながら、ベテラン騎士は引き下がった。あのリエーレをやり込めた男に対し、若干の畏怖と近寄りがたさをベテラン騎士は感じていたのだ。
そして、その認識は他の多くの騎士も同様である。
聖風騎士団第二大隊は、リエーレという精神的支柱を失ったが、その代わりにグレフへの畏怖によって動いていた。
それは、まさにグレフが望んだ状況であった。
景気づけに濃い目の酒をスキットルから飲んでいたグレフの元へ、直属の部下がやってきた。馬を連れている。部下は偵察に派遣されていたのだ。
「グレフ様。赤い布を付けた岩を発見しました」
「お、ついにそこまで来たか。ご苦労さん」
部下からの報告を聞いたグレフは破顔した。
グレフはスキットルを手に歩く。その後ろをぴったりと直属の部下がついてくる。
周囲に他の騎士たちがいなくなってから、グレフは部下にだけ聞こえる声で言った。
「本当にご苦労だったな。薬の散布、申し分ないタイミングと分量だったぜ」
「恐縮です。しかし、まさかあれほど劇的な効果があるとは私も驚きでした」
「本当になあ。薬を用意したオレもびっくりだわ」
グレフは機嫌良さそうにカラカラと笑う。
部下も小さくニヤリと笑った。
「グレフ様のご実家は、もっと力を得てもよいのでは? このような薬を開発できるなど、相当な技術力のはず」
「あーダメダメ。こういうのは邪道だって、騎士の間では認められていないんだ。魔族がよく使う手だと言われているからね。だから、やるならこっそりとやるしかない」
「聖風騎士団も、何が最も効率的かを考えられればよいのに」
「はっはっは。まあ、おかげでこうして面白い体験ができたんだから、悪いことばかりじゃないだろ」
――部隊全体を襲い、リエーレを錯乱させ、グレフが部隊を掌握するきっかけとなった、あの幻覚の霧。
これは、グレフが「実家が開発した薬だ」として密かに持ち込んだものだった。この事実は、限られた側近しか知らない。
そして、実際に薬を使用し、幻覚を発生させたのもグレフとその配下の者たちだった。
さらに、当初リエーレが発した待機命令を、伝言ゲームの要領で進撃命令に変えさせたのもグレフの手によるものである。リエーレが立場を追われた今、指揮系統の混乱を責める騎士はいない。
その結果、予想以上の効果が得られた。
精神的に疲弊していたリエーレには特に効果てきめんで、グレフにとってこれ以上ない最高のシチュエーションを演出できたのだ。
正直、もっと手間と時間がかかるものだとグレフは考えていた。これは、神の采配なのではとさえ彼は思っている。
もっとも、グレフが考える『神』は、世間一般の神とは異なるが。
ふと、部下が笑みを引っ込める。
「しかしグレフ様。リエーレ隊長に対して、ここまでする必要があったのでしょうか」
「おお? オレのやることに反抗するかあ?」
「いえ、そういうわけではなく。彼女は騎士の中の騎士。無理にリエーレ隊長の自尊心をへし折らなくても、『部隊の失態』をひとつふたつ作れば、彼女はその責任を自ら負ったのでは?」
「まあ、確かにそうだ。『自粛させる』くらいならもっとやりようはあっただろうさ。けどな」
グレフもまた、笑みを引っ込める。
「オレは、リエーレ・アミシオンの心をへし折る必要があったのよ。彼女は、誇り高く、騎士の理想型だったからな。リエーレ隊長を乗り越えなければ、オレの存在意義は証明できないと思ったんだ」
「存在意義……。グレフ様が最も優れた騎士であることを証明すること、ですか」
部下は言う。
グレフは否定も肯定もしなかった。ただ、いつもの気の抜けた笑みを浮かべるだけ。
グレフは内心で呟く。「オレの存在意義は、ここにいる誰にも理解できないだろう」と。
もし理解できるとすれば――。
「さあ、無駄話は終わりだ。お前は戻って仕事しろ、仕事。あんまり持ち場を離れてると怪しまれるぞ」
「は。グレフ様は?」
「オレはもうちょいここにいる。紅の大地の風は、結構気に入ってるんだ」
肩をすくめるグレフ。それでは、と部下の騎士は敬礼し、踵を返した。
部下の後ろ姿を見ながら、グレフは呟く。
「すまんなあ、お前ら」
少しも悪びれた様子もなく、彼は口の端を引き上げた。
「有効利用させてもらうわ。お前ら全員を。オレの理想とする紅の大地に必要なのは――紅い血なのよ」