「今日からライラお嬢様は離宮の方へ行かれたみたいだねぇ。君も予定通り呼ばれてるだろう、シャーリー君?」
室内に響く男の呼びかけに、少女は深々と頭を下げた。
「はい。グラウド様」
夜もふけた頃。
執務室には二人の人物がいた。
一人は少し小太りの色褪せた黒いソフトハットを被る男。
その帽子は彼の商人時代からのお気に入りの物だった。
宰相にまで登り詰めた今は、こんなみすぼらしい帽子を公的な場で被ることは許されない。しかしこの帽子は、モーラン・グラウドという男にとっては、自らのアイデンティティの象徴だった。
名を呼ばれた少女。
シャーリーの桃色のツインテールが揺れる。小柄な体にふわりと広がるメイド服。まるで無垢な少女のように見えるが、その紫がかった瞳にはわずかな光も映らない。
(ライラ様を殺せば、ミルネシア王女の心は砕け散る)
それを知っているからこそ、ただ殺すのでは意味がない。
大勢の前で、徹底的に辱め、王女の目の前で無惨に命を奪う。そうすれば、王女は二度と立ち上がれなくなる。
その行為には自分の個人的な復讐も含まれていた。
(ライラ・ルンド・クヴィスト……彼女だけは、必ず)
元を辿れば原因は全てユリアナにある。だが、両親が死に住んでいた土地を追われ、大切な人が傷ついた直接的な要因を作ったのはライラといえる。
だが今は計画のためにも、ただ役を演じ続けるだけだ。
――従順な侍女として。
「暴姫が全部片付けてくれてたら、こちらとしても都合がよかったんだけどねぇ。彼女がミルネシア様に入れ込んでいる事は分かってたけど、ここまでとはちょっと予想外だったかな」
モーランがやれやれと肩をすくめるのに対し、シャーリーは微笑んだ。
「ですが、暴姫様は"本当に"暴れるだけの人。
「そうだね。シャーリー君の言う通りだ。あのままユリアナが止まらなければ、僕も関係なく殺されていただろうからね。はぁ、彼女はとんだじゃじゃ馬だよ」
計画には"順序"がある。
無秩序に殺しても意味がない。
ミルネシア王女の支えになる者は、すべて殺す。
ライラも、将軍ハディオットも――一人残らずだ。
「全部終わったら、知り合いの高位聖職者への推薦を書いてもらえるって話、忘れてませんよね?」
「分かっているよ。君とはそういう契約だったからね」
「だったらいいです」
少し胡散臭さを感じたものの、シャーリーはそれ以上追及しなかった。
彼女にとって重要なのは、復讐を果たすこと――そして、自分が望む未来を手に入れることだけだ。
「ライラ様を殺すのは、査問会の場で構いませんね?」
「うん、それが一番効果的だろう。彼女には、徹底的に罪を着せた上で、断罪されてもらう。公開処刑といきたいところだけど……ミルネシア王女の前で絶望させるなら、そこまでしなくてもいいかもしれないね」
「……どうしてそう思われるんですか?」
シャーリーが静かに問いかける。彼女の紫がかった瞳には、純粋な疑問が浮かんでいた。
「実際に現場を見ていたからだよ」
モーランは薄く笑いながら、指先で机をトントンと叩く。
「瓦礫の下でこっそりね。ユリアナが暴れ回ったあの夜、僕はずっと見ていた。ミルネシア王女はライラ君のことが好きで好きでたまらないんだ。それこそ、自分の命をかけられるほどにね」
その言葉に、シャーリーはほんのわずかに眉を動かした。
「君にもいるかい? 命をかけられるような人は?」
「――いますよ。だからこうしてあなたに従っているんです」
「それは結構」
即答された返事にモーランは満足そうに頷く。
「……ミルネシア様がライラ様を身を挺してユリアナから守ったと聞いていましたが、そこまでとは」
「そういうことさ」
モーランは愉快そうに肩をすくめた。
「逆に言えば、幼馴染のライラ君と再会するまでのミルネシア王女は、僕でも手玉に取れそうだったよ。まあ、アリシア妃に邪魔されてダメだったけどね」
懐かしげに笑いながらも、その瞳には冷え冷えとした光が宿っていた。
「だからこそ、ライラ君を殺せば、ミルネシア王女は完全に崩れる。あとは時間の問題さ」
「……」
シャーリーは何も言わなかった。
ただ、彼女の細い指がスカートの端をぎゅっと握りしめたことに、モーランは気づかなかった。
「……レオン・アルバート様のことは、どうされます?」
「彼は王族に固執しない。ただ国を守ることだけを考える男だ」
だからこそ、御しやすい。
王族の威光が失われれば、あの男はすぐに王国を存続させる為の"新たな主"を求めるだろう。
「ミルネシア王女が失墜すれば、彼は王妃アリシア様のもとへ向かう。そして――」
グラウドが、机に置かれていたチェス盤の白の駒をひとつ、人差し指で軽く弾いて倒した。
倒れた駒は――クイーン。
「そのアリシア様もいなくなれば……」
白のキングとクイーンが倒れて、重なる。
宰相モーラン・グラウドは帽子のつばを指で軽く弾きながら、にやりと口角を上げて嗤った。
「王国は、僕のものだね」