「うん、よし。誰もいなさそう」
部屋の扉を少し開け、周囲の様子を伺う。廊下の壁には等間隔で燭台が取り付けられており、ゆらゆらと揺れる炎が、薄暗い空間を淡く照らしていた。夜の静けさの中、炎の小さな音だけが耳に残る。
と、そのとき――
「――!?」
背後の部屋から、ガタリと何かが倒れる音がした。ライラは慌てて振り返る。寝台の上に置いてあった本が落ちた音のようだった。
「ん〜……らいらぁ……すぅ」
ミルネシアが寝ぼけて枕に抱きついている。彼女は昔からこうだ。一緒に寝ると、すぐに抱きついてくる。魔法を覚えたての頃は、身体強化が暴発して、腕力でぎゅうぎゅうに締め付けられたことも何度もあった。
それが今では、寝ている間に力を暴走させることもなくなり、枕を潰すことすらない。
(懐かしいなぁ。あの頃のミル……死にそうになった回数、数え切れないや。でも、毎回謝ってくれたっけ。今はもう、本当に何回か死んでるけど)
自嘲気味に思いながらも、ミルネシアに大事そうに抱きしめられている枕を見て、そこに混ざりたい衝動に駆られた。
「……ミルが起きる前に戻らないとね」
小さく呟き、ライラは部屋を後にした。
向かう先は王宮。文書庫がある場所だ。夜の離宮は静かで、見張りの数も限られている。部屋の前に立っているはずの護衛も、今夜は廊下の奥、曲がり角に立っているのが見えた。
(進行方向と逆なのは助かる。それに、あの人はレオン様の部下じゃない。夜は警備の配置や質が違うんだな……覚えておこう)
離宮と王宮は、一つの連絡回廊で繋がっている。石造りの屋内通路で、外に出ることなく行き来できる構造だ。回廊には赤絨毯が敷かれ、壁には古い絵画が飾られている。天井近くには細長い窓があり、わずかに差し込んだ月明かりが、それら全てをぼんやりと照らし出していた。
その回廊の中央部には、王宮と離宮が並び立つ様を同時に望める小さなバルコニーが設けられていた。両翼に広がる石造りの建物は、月光を受けて静かに輝き、まるで二つの異なる世界が接しているかのような幻想的な光景を作り出している。
バルコニーの下方に広がるのは、王宮専属の庭師が手入れを続けてきた庭園だ。夜の闇にも色を失わぬほど咲き誇る無数の花々が、風にそよぎ、淡く揺れている。草花についた夜露が月明かりを受けて煌めく様は、まるで宝石のようだった。
(ミル、あの頃みたいに……笑っててほしい)
この場所は、かつてミルネシアと何度も鬼ごっこをした思い出の道でもある。絵画が掛けられた壁、手すりの感触、夜風の匂い――すべてが過去の記憶と現在を繋ぎ、ライラの足を無意識に早めさせた。
(思い出の道……だけど、現状一番の問題はあの回廊なんだよなー。王宮との接続部には絶対に見張りがいるだろうし。どうやって抜けるか……)
そんなことを考えながら、ライラは廊下を移動する。燭台の下は素早く通り抜け、暗がりに身を隠しながら進んだ。
と、前方から微かに声が聞こえる。
ライラは咄嗟に側にあったカーテンに身を潜める。
(――侍女たちの声がする。こんな時間までお仕事? ……お疲れ様です)
ライラはその場で息を殺し、彼女たちが通り過ぎるのを待つ。
「今日はミルネシア王女が離宮に泊まってるらしいわよー。私たち一介のメイドじゃ近づくことすらできないけど」
「本当にびっくりよね。王女様が連れてきたお嬢様って聞いてたけど、ここまで懇意だなんて……かなりの要人なんだろうなぁ」
二人の侍女が談笑しながら通り過ぎていく。足音が遠ざかるのを確認して、ライラはようやく息をついた。
(ふぅ。ひとまずセーフかな)
夜の離宮は、やはり警戒が甘い。
(やっぱり、ミルが一緒だと色々と緩くなるんだな。私が何かしたって、きっと止められるって思われてる。……実際、その通りかもね)
ライラは再び歩き出す。灯りの下を素早くすり抜け、影の中に身を潜めながら、慎重に文書庫がある王宮へ向かった。
宰相の動きの手がかりを探るために。
そして誰にも見つかる事なく問題の回廊まで辿り着くことができた。