――死が、迫っていた。
痛みはもうない。温度も、音も、すべてが遠くなっていく。
ただ、胸の奥にだけ、微かに残っていた。どうしようもない後悔と、どうしても見捨てられない想いが。
(……シャーリーは……利用されてただけ……あんな目に遭って、まだ……お姉さんを……)
あの泣き顔が頭に焼き付いて離れない。決して、彼女はただの駒なんかじゃない。間違ってしまっただけ。戻れるなら――もう一度だけ、やり直せるなら。
そう願った。
その時だった。
カチリ――
意識の深い底で、何かが回転するような音がした。耳元で囁くような、澄んだ金属音。
指輪。
いつも薬指に嵌めている、あの指輪が、眩しいほどの光を放った。
【――おま……の】
何か声がした。上手く聞き取れない。
光が、彼女の身体を包み込む。現実がまるで崩れ落ちるように、重力すら消えた感覚に襲われた。
心臓が止まった――かと思う瞬間、ライラの瞼がふっと開いた。
そこは、いつも目覚める場所ではなく――
「……っ、はぁ……はぁっ……!」
息が乱れている。手が震えている。けれど、足元には赤い絨毯、周囲は静かな夜の廊下。
見覚えのある場所だった。
王宮と離宮を繋ぐ、連絡回廊。その手前。
つい数刻前まで歩いていた、あの場所。
――戻ってきた。
また、あの時に。
ライラは自分の手を見下ろし、そして何よりも、薬指の指輪が淡く輝いているのを確認した。
間違いない。これは、あの時点に“巻き戻された”証拠だった。
「……やっぱり、あれが……。指輪が……」
呟いた声に、自分でもわずかに震えがあった。
またやり直せる。だが、同時に、確信したこともある。
モーランは――本物の化け物だ。
シャーリーも……いいや、
「……今の彼女はシャーリーちゃんだから。そういう風に扱わないとね」
彼に勝つには、偶然や運では足りない。もっと計画的に、もっと周到に事を進めなければならない。
生半可な考えじゃあ、先回りされる。
ライラはゆっくりと深呼吸し、震えを抑えるように自分の胸元に手を当てた。
――今度こそ、救ってみせる。
その決意と共に、彼女は再び回廊の方へと歩き出す。
自分やミルネシアだけでなく、シャーリーの運命も変えるために。
◇◆◇◆◇
「……鉢合わせないようにしないと」
今回は前回の失敗を教訓に、シャーリーが確実に離宮へ戻ったのを確認してから行動に移すことにした。宰相モーランがどのタイミングで姿を現したのかは不明だが、背後に部下が控えていた様子からして、彼自身がシャーリーを回廊の途中まで見送っていたのだろう。
(回廊の入り口まで見送って、シャーリーの声を聞きつけてやってきたんだろうな)
王宮と離宮を繋ぐ扉の前、夜の静けさの中、ライラはひっそりと息を潜めていた。
扉の前には宰相と一緒にいた二人の衛兵がいるのを確認できた。
やがて、交代の時間を告げるかのように、控えめな声が聞こえた。衛兵同士が軽く言葉を交わし、ゆっくりと引き継ぎの手続きを始める。
その時だった。片方の衛兵が、手元の書状に視線を落とした。ほんの一瞬の隙――だが、ライラにとっては十分だった。
(今!)
音を立てぬよう足を滑らせ、扉のわずかな隙間から身体を滑り込ませる。内側の扉を閉じる直前、外からの会話が再び聞こえてきたが、すぐに静寂に包まれた。
(ふぅ……成功)
王宮側の廊下は、離宮のそれとは比べものにならないほど華やかだった。磨き上げられた大理石の床が淡い反射光を放ち、金縁の絵画が壁にずらりと並ぶ。天井には小ぶりながらも精緻なシャンデリアが等間隔で吊るされており、その光が静かに廊下を照らしていた。
このまままっすぐ進み、階段をひとつ下りた先――そこに、目的の文書庫がある。
元は王室の記録係が常駐していた部屋だが、今では古文書や各種報告書の保管庫として使われている。目の前の扉には小さな鍵がかかっていたが、ライラは迷わず腰のポーチに手を伸ばした。
「……リル・アルバート。ミルの専属メイドで、私のせいで死んだ人……」
囁くように名を呼ぶ。かつてミルネシアに仕えていたメイド――今は亡き彼女の“悪知恵”が、まさかこんなところで役立つとは思わなかった。
針金とピックを取り出し、手際よく鍵穴に差し込む。音を立てぬよう慎重に動かすと、数秒後、カチリという軽い音が響いた。
(筋がいいって……褒めてくれたっけ、リルさん)
そっと扉を押し開けると、目の前に広がったのは窓のない、息の詰まるような静謐な空間だった。壁一面を本棚が埋め尽くし、その中には書簡、日誌、古文書、各種報告書がぎっしりと詰め込まれている。
ライラは足元の魔石ランプに火を灯し、柔らかな光を頼りに棚を見渡した。
(すごい量……でも、探すのは“毒”と“倉庫”と“輸送経路”に関わる記録)
一冊一冊、目を凝らしながら慎重に手に取っていく。古びた帳簿、王国内部の貿易記録、兵站に関する文書……目当ての情報に近いものは多いが、どれも決定打には欠けていた。
「どうしよう……これだと一晩じゃとても足りない。どこに何があるかも分からないのに……」
そう呟いた瞬間、ふと視線が止まった。
一箇所だけ、妙に整理された棚があったのだ。埃もほとんど積もっていない。その中の一冊を手に取ると数枚のページに付箋が挟まれていた。
(……誰かが最近、読んでる)
不穏な予感が背筋を走る。
「王都南部、第三倉庫より、王城へ特例物資を搬入……日付、査問会の三日前!」
文書を見ると、思わず声が漏れた。
(これ……まさか、何かの罠?)
不自然だった。あまりにも都合よく、あまりに露骨だ。まるで人に読まれることを前提に仕込まれた情報のようだ。
(でも、モーランがわざと手の内を晒すとは思えない。誰か他に……?)
思考を巡らせながら、さらにページをめくる。
(特例物資搬入。詳細の記述なし。品目は生鮮品……"聖水"?)
王城への搬入物資にあるまじき曖昧な記述で、知らず知らずのうちに眉を寄せていた。
(……何か隠してる。毒か、あるいは、それに関わる何かを)
ライラはランプの火を消し、いくつかの記録を懐へと忍ばせた。
(改竄……と言い切るには弱いか。でもこの不自然さは、見る人が見ればモーランへの疑惑を抱くはず。でも、もっと確実な情報が必要だ)
静かに扉を閉じ、同じ手口で鍵を閉めた後、文書庫を後にする。足音を殺しながら、王宮の回廊へと戻る道を辿っていく。
この証拠を誰に見せればよいか。どこまでが味方で、誰が敵なのか。
でも、確かに――宰相モーランの陰謀へと、手が届きつつある実感があった。
(近づいてる。確実に、一歩ずつ)
帰りは、見張りがまた入り口から消えていた。
月明かりが差し込む回廊。その光の下をライラは再び静かに歩み出した。