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第25話 世界で一番会いたくない男

 廊下に出るとすでに王城の朝は始まっていた。


 控えめな足音と擦れる衣擦れの音。使用人たちが忙しなく動き回り、廊下の窓辺には新しく活けられた白い百合が朝の光を浴びて揺れている。ミルネシアは立ち止まり、胸いっぱいに清々しい朝の空気を吸い込んだ。


「……今日も頑張らないといけないわね」


「――ミルネシア様」


「……だから、いつも言ってるでしょう? 急に出てくるなと。びっくりするのだけれど?」


 音もなく背後に現れたのは、王女専属の秘書官であるメアリーだった。


 秘書官とは、君主に代わって政務を支え、時に情報操作や外交の裏工作までも担う影の立役者である。本来であれば、その役目を担い、ミルネシアを側で支えなければならなかったのはライラだった。


 だが彼女が国を裏切り、皇帝ユリアナの従者となったとされてから――空席となったその役目を埋めるように任命されたのが、当時第二候補であったメアリーである。


 元よりメアリーもライラに劣らぬ才女だった。唯一の違いは、彼女が名門貴族の生まれではないこと。それでも、判断力、事務処理能力、そして感情すら制御する冷静さを備えた彼女は、王族の秘書官として周囲の期待以上の働きを見せていた。


「これは失礼しました。しかし、僭越ながら申し上げますと――ミルネシア様。そう仰るわりに、ずいぶん落ち着いておられますね?」


「何度もやられてたら、さすがに慣れるわよ」


 ミルネシアは肩をすくめる。にべもない返事だったが、その瞳は冷えた水面のように静かに研ぎ澄まされていた。


「それで。モーランの動きは掴めた? 査問会を開こうと最初に提言したのは彼よね? 絶対になんらかの思惑があるはずよ」


 彼女とは常に朝の定時報告を怠らないようにしている。ユリアナの侵略により王国内部の情勢が不安定な今、頼れる人物は限られていた。


「はい。確かに、動きは彼が起点のようですが、まだ核心には至っておりません。周囲に疑われぬよう、かなり慎重に動いている様子です」


「……そう。あの男、モーランは狡猾よ。罠を仕掛けるときは、必ず退路を整えてから動くの。失敗しても被害を最小限に抑えるように、ね」


「はい。しかも今回は、“失脚させたい相手”、いえ、この言い方は変ですね。彼の“標的”がはっきりしている分、より厄介です。最悪、ライラ様がそのまま査問会で罪を問われ、正式に処分される筋書きも――」


「……言わなくていいわ。分かってる。そうならない為に私たちは動いているのだから」


 ミルネシアの声にわずかな怒気が混じる。だがそれは、自分自身への苛立ちのようでもあった。


 しばしの沈黙ののち、彼女は再び歩き出した。メアリーはそれに一歩遅れてついていく。


「……ミルネシア様。これはあくまで私個人の意見ですが――我々が過度に彼女を擁護すれば、逆効果となり得ます。彼女は……“逆賊”なのですから」


 その言葉に対し、ミルネシアは敏感に反応した。


「分かってるわよ! そんなこと……! それでもあの子の……ライラの事が大切なのよ」


 語気を強めたミルネシアに、メアリーは一瞬だけ視線を伏せ、深く呼吸してから言葉を継いだ。


「貴女様が彼女に特別な思いを寄せておられる事は承知しております。しかし、今の貴女は“王女”として、この国の未来を背負う立場にございます。感情のまま動いては、相手の思う壺かと――」

「…………」


 ミルネシアは言葉を飲み込むように沈黙した。


「あと、ライラ様の事ですが……」


 ミルネシアは立ち止まり、何かを言おうとして言い淀むメアリーの方へ向く。


「あの子について何か気になる事でもあった? そういえば、あなたとはまだ正式な挨拶もしていなかったわね。今から……は、ちょっと無理ね。昼頃、またこっちに来てもらえる?」


「いえ、なんでもございません。それと申し訳ありませんが午後は既に予定が埋まっておりまして」


 ミルネシアは少し残念そうに眉を下げたが、ふと何かを思いついたように、ぱちんと手を打った。


「そう。じゃあ、今度一緒にお茶でもしましょう! メアリーにも、あの子のことを知っておいてほしいの。ライラは少し変わってるけれど……すごく良い子なのよ」


「……はい。是非に」


 袖の下で、メアリーの小さな拳が静かに握られる。その握り拳にこめられた感情の名を、完璧に言い当てられる人間は、この王城におそらく一人しかいないだろう。


 その時――


「おやおや、王女殿下と秘書官殿ではございませぬか。これはまた偶然にお会いしましたな」


 陽気な声とともに、角を曲がってきた男が一人。


 灰色の髪に、金の装飾をあしらった杖。そして蛇のように細められた瞳と特徴的な体型。


 宰相――モーラン・グラウドである。


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