「グラウド様……」
その姿を目にしたメアリーは、咄嗟に王女の背後へと一歩下がった。
現在のラフストン王国において、宰相モーランと対等に言葉を交わせるのは、僅か四名。王妃アリシア、王女ミルネシア、将軍ハディオット、そして近衛騎士団団長レオンだ。王女専属の秘書官であるメアリーは、こういう場では王女の側に控えるしかなかった。
「ごきげんよう、グラウド卿。今朝はずいぶんと早いのですね。わざわざ離宮まで足を運ばれて、何かご用でも?」
その表情には微笑が浮かんでいたが、ミルネシアの内心には不快感が渦巻いていた。
(朝から最悪の顔を見たわね……)と舌打ちを飲み込む。
王族とて人間だ。嫌いな相手に舌打ちの一つくらいしたくなることもある。
だが、それを表に出すのではなく、言葉と態度だけで「あまり近づくな」と静かに牽制するあたり、王族としての器量でもあった。
しかしモーランは、まるで気にする様子もなく、笑みを浮かべたまま言葉を継ぐ。
「商人の朝は早いものでしてな。宰相になってもその習慣が抜けなくて困っております。王女様こそ、まだ寝ておられても誰も文句など言いませんでしょうに?」
「おあいにくさま。今のご時世、惰眠を貪る余裕なんてありませんもの」
「それはそれは。なんとも殊勝なことで。王国の未来も安泰ですな」
どこか、からかうような声音。ミルネシアの眉がわずかに吊り上がる。
「……それで、何の用件?」
その声は冷ややかさを増していた。モーランは肩をすくめて、大袈裟に笑ってみせる。
「ははっ、怖い怖い。そんなに睨まないでくださいよ。ボクはそんなに悪い人物に見えますかな?」
「ええ、とても。ついでに言うと胡散臭いわ」
「ミルネシア様っ……!」
あまりに率直な物言いに、メアリーが小声でたしなめようとしたが、モーラン自身がそれを制した。
「構いませんよ、メアリー秘書官。王女様は正直なお方だ。信頼されていないのはボクの不徳の致すところというもの」
その口元には余裕の笑み。それが余計に腹立たしいと、ミルネシアは内心で歯噛みした。
「……まさか、この先に用があるとは言わないでしょうね。いくら貴方でも、これ以上奥には進めないのは分かってるわよね?」
「もちろん。今日はその件で参りましたから。王女様に、ライラ様に関することでどうしてもお伝えしたいことがありまして」
「彼女のこと? まさか、また査問会の件?」
「いえいえ、もう少し……慎ましい話です。王女様もご存知の通り、現在、ライラお嬢様には専属の侍女が二人ついておりますな?」
「ええ。事後報告ではあったけれど、その件は聞いているわ」
「ならば話は早い。彼女に専属メイドをつけ、離宮に隔離しているのは、彼女の存在が公になれば王宮内に混乱を招く――そう判断されたが故の措置。王女様も、その点はご理解されているものと」
「……理解はしているわ」
「であれば、今回のお願いは単純です。専属メイドが彼女のお世話をする以上、王女様ご自身が不必要に接触することは避けていただきたい。……これは、貴方を疑っているという話ではありません。ただ、不要な“誤解”を避けるために、です」
「…………」
「末端の使用人たちの間にも、すでに噂が広がっております。“あの方は特別な人物なのではないか”と。……この空気が査問会に先立って蔓延するのは、決して得策ではありませんよ。彼女を恨む者も、少なからず城内にもおりますので」
「…………」
「ご理解いただけましたかな? 王女様」
「……言いたいことは、わかったわ。善処する」
それは「従う」という意味ではなかったが、今この場で、これ以上続けるべきではないと判断したミルネシアは、それ以上は語らなかった。
――だが、彼の真の目的が“ライラに近づくな”という警告であると見抜いた以上、黙って従う気などなかった。
モーランはその様子をじっと見つめ、にやりと口角を上げる。
「王女様の賢明なご判断に、心より感謝いたします」
その言葉に、ミルネシアは一切反応を返さなかった。まるで氷像のように、ただ静かに立ち尽くす。
――その時だった。
背後の廊下から、複数の足音が早足で近づいてくるのが聞こえた。
「ひぃーっ、遅刻ですっ! 昨日の夜、今日の朝当番はルイディナさんにお願いしましたよね!?」
「すみません……朝は苦手でして。やはり起きられませんでした……」
小走りでこちらに向かってきたのは、ライラの専属メイドであるシャーリーとルイディナだった。
「もぉ~っ!」
「あ、フェネリット。前……!」
「おっと、危ない」
「えっ――ぷあっ!」
宰相の目の前に飛び出したシャーリーを、モーランは意外にも軽やかにかわした。
そのままの勢いで、シャーリーはミルネシアに思い切りぶつかってしまう。
「えっ。ちょ!」
「ミルネシア様!?」
シャーリーがミルネシアに思いきりぶつかり、二人はもんどり打って倒れ込む。
「うわぁっ!? ご、ごめんなさいっミルネシア様っ!」
「……ちょっと、なに。痛い……!」
廊下の静寂が一瞬で吹き飛んだ。
その場にいた全員が呆気に取られる中、モーランだけが――わずかに、意味深な笑みを浮かべていた。
◇◇◇
「……なんか、おそと、うるさい」
もぞもぞと布団の中で丸くなりながら、ライラが呟く。
離宮の寝室では、彼女がまだ夢の中にいるというのに――その外では、騒がしくも、不穏な一日が、静かに幕を開けようとしていた。