「本当に申し訳ございませんでしたっ……!」
廊下の一角、正座して謝罪を繰り返すシャーリー。その肩をミルネシアは軽く叩いてやる。
「もういいわよ。怪我はないんでしょ?」
「は、はい……!」
恐縮しきった様子のシャーリーに目を細めながら、ミルネシアはふと彼女の顔をまじまじと見つめた。
「えっと……あなたは、確かシャーリー・フェネリットさんだったかしら? 本殿勤務のはずだけど、どうしてここに?」
名前を呼ばれた瞬間、シャーリーはビクリと反応し、驚いた顔でミルネシアを見上げた。
「ひゃいっ!? まさか、王女様に覚えていただいていたなんて……っ、光栄です!」
「うちで働いている人の資料には、一通り目を通しているから」
さらりと言ってのけたミルネシアに、すかさずモーランが肩をすくめた。
「ボクにはできませぬなぁ」
「ミルネシア様。それ、普通の人には無理ですよ」
呆れたようにメアリーも言葉を添えるが、当の王女はどこ吹く風。
――王族たる者、常に先を見据え、あらゆる事象を掌握するのです。
幼き頃から母親の英才教育を受けていたミルネシアにとって、それくらいの芸当はできて当然だという表情だった。
ミルネシアは次に、もう一人のメイドへと目を向ける。彼女の事もどこかで見た記憶がある。
少し思考を巡らせ、幼い頃の記憶がふっと蘇った。
「……あなたは、昔リルと仲が良かったメイドさんよね? 名前は……ルイディナ・スウスで合ってるかしら?」
名を呼ばれたルイディナは、微かに目を見開いた後、静かに会釈をした。
「……よく覚えておいでですね。ミルネシア様とお話しする機会があったのは、ほんの数回。それもずっと昔のことでしたのに」
「私、記憶力はいい方なのよ。リルもあなたの事を時より話していたし、何よりライラの一件があったから。あの子は大した事はしてないと言っていたけど、当時の自分が動かせるお金を全額寄付するなんて中々できる事じゃ無いわ」
「あの時は本当にお世話になりました」
小さく微笑むミルネシアだったが、その温かい空気を壊すように、モーランが口を挟んだ。
「――そんなに記憶力が良い王女様が、大罪人と仲良くしておられる状況。誠に遺憾ですな。よもや、ライラ・ルンド・クヴィストが何をしでかしたか、お忘れになったわけではありますまい? そのリル殿が亡くなる原因を作ったのも彼女ですぞ」
その言葉に、ミルネシアの目が一瞬だけ鋭く光る。しかし、表情は変えずに答えた。
「覚えているわよ。だからこそ、査問会を開くことにも納得したわ。提言したのは、貴方だったわね?」
「さようでございます。ですが実に卑怯な話だ。何やら聞きましたぞ? 王女様はコソコソと裏で準備を進めているとか。何事も対等でなければいけません。事前の根回しなど、あってはならぬと私は思いますがなぁ。……そうは思いませぬか、メアリー殿?」
急に話を振られ、メアリーは一瞬たじろいだ。しかし、迷いのない声で答える。
「私は、ライラ様を信じているミルネシア様を信じます」
その言葉に、ミルネシアはふっとわずかに口元を緩めた。
「ええ、メアリーの言う通りよ、グラウド卿。私は今のライラを信じてるの。心からね。あなたがどう思おうと関係ないわ。……それに、あなたの方こそ、裏で何か企んでいる暇があるなら、少しは国のために協力したらどう?」
ピシャリと言い放つと、モーランはわざとらしく肩を落とし、大げさにため息をついた。
「なんと、ボクはこんなにも身を粉にして働いているというのに……ここは本来、労いの言葉をかけていただく場面ではありませんかな?」
「そう。じゃあ、もっと頑張りなさい」
「これは手厳しい。ですがそれこそ、王女様に信頼されるための試練。乗り越えねばなりませぬなぁ」
涼しい顔で飄々と語るモーランの姿に、ミルネシアは内心で小さく感嘆した。
(ここまで平然と嘘を吐き続けられる男も、そうはいないわね。もはや才能の域)
ミルネシアは心中でそう呟きながら、軽くため息をついた。こういった場での駆け引きには慣れているつもりだったが、モーランの老獪さには時折、寒気すら覚える。
気を取り直し、振り返った彼女は、二人のメイドに目を向けた。やや緊張の面持ちを残しつつも、きちんと整列している彼女たちに、柔らかく声をかける。
「私はもう仕事だからいくわ。シャーリー、ルイディナ。ここまで急いで来てもらって悪いけど、どちらか片方がライラの身支度を手伝って、もう一人が食堂に行って朝食とってきてあげて。たぶん部屋で食べる筈だから」
「分かりました! ルイディナさん、どうしますか?」
「私が食堂に行く……から、フェネリットはライラお嬢様の部屋に」
「了解です!」
シャーリーとルイディナは簡潔に指示を分担し、それぞれの任務へと向かった。残されたのはミルネシア、モーラン、そしてメアリーだけだ。
その場に静けさが戻ったところで、モーランが思い出したようにメアリーに声をかけた。
「おお、そうでした。忘れる所でしたよ。メアリー殿にも用があり、聞けばこちらにいると伺ったのでした」
「あら、すると私はついでだったのかしら?」
「ついでだなんてとんでもない。たまたまですよ。メアリー殿に少し政務の事について、聞きたい事がありまして」
ニコニコと人懐っこい笑顔を浮かべながらも、その目はまるで蛇のように冷ややかだ。モーランの言葉には、どこか嘘くささがにじむ。
「珍しいわね。政務の事は私とメアリーに任せっきりだというのに」
ミルネシアは一歩も退かない声音で返す。とはいえ、どこか探るような視線をモーランに投げかけた。彼女にしてみれば、宰相が自ら動くというのはあまりに不自然だった。
「ははっ、痛い所をつかれますな。しかし他国とのやり取りを請け負っているのは全てこちらですぞ? 今回も王女様の母君たるアメリア様が、早く帰って来れるようセッティングしたのもボクのお陰なのですから感謝していただきたい」
得意げに胸を張るモーラン。その態度には、誇張とも皮肉ともとれる誇らしさが滲んでいる。だが、そんな自慢も彼女には通用しない。
「あなただけの力じゃないわ。それはレオンの部隊の実行力があってこそよ」
ぴしゃりと即答する彼女の言葉に、モーランの笑みがわずかに引きつる。だがそれも一瞬のことで、彼はすぐに肩をすくめて応じた。
「ま、それも多少はありますな。ではメアリー殿。先に応接室に行っておりますぞ。王宮ではなく、こちらの方で」
飄々とした声と共に、メアリーの返事を待つ事なく、彼は踵を返し、手を振りながら離宮の一階へと向かう階段を下りていく。人を煙に巻くような軽さは、まさにモーランの真骨頂だった。
「ちょっ、グラウド様!」
その背中を見送りながら、ミルネシアがぽつりと告げる。
「――メアリー。シャーリーを……桃色髪のメイドに監視をつけておいて頂戴」
「と、言いますと?」
あのメイド――シャーリーに何かあるというのだろうかと、メアリーは思わず真剣な面持ちになる。
「彼女は先日まで本殿勤務だった。実際に何度か城で見かけていたしね。でも大事なのはその後。私はライラの臨時専属メイドが決まったことは知らされていたけど、それが誰になったのかまで私は聞かされてないわ」
ミルネシアの言葉には確かな自信と裏付けがある。彼女がこうして「知らなかった」と明言するのは、経験に培われた察知だった。
ライラを保護する上で王族であるミルネシアに届いて当然の情報が、なぜか自分に届いていなかった。その違和感が、彼女の中で疑念へと形を変えた。
メアリーはミルネシアの話を聞き、言葉を選ぶように、静かに告げる。
「んー、それは流石に考えすぎでは? ミルネシア様がお忙しい中で聞きそびれたか、担当の者が言い忘れたのかもしれませんね」
「私はライラに関わる話で、聞いていないなんてことはないわ。おそらく意図的に伝えられてない――王女の勘よ」
それは鋭く、そして的確な直感だった。こういう時のミルネシアは何よりも信頼に足る。メアリーはそれを誰よりもよく知っていた。
「……分かりました。では手配しておきます」
「ええ、お願い」
「もう一人の方はどうしますか?」
「彼女は平気よ」
「それも王女の勘ですか?」
「ええ、勘よ」
メアリーは小さく息をついて頷く。
「分かりました。お任せください」
「頼んだわ。何かあったら王宮の執務室に来て頂戴。今日は一日そこにいる予定だから」
「はい」
ミルネシアの命を受け、メアリーは一部の部下に指示を出した後、宰相に指定された応接室へと向かった。立場上、派閥が違う者であっても、政務の話を持ち出された以上、無視はできない。
査問会前に、攻撃材料を増やされるわけにはいかないのだ。
「グラウド様。入りますよ」
ノックをし、ドアを開けた瞬間――空気が変わった。
湿気のような重苦しい圧力が、部屋の奥からじわじわと肌を這う。
そこには、ソファにだらしなく座り、葉巻をくゆらせるモーランの姿があった。
メアリーは直感的に「これは政務の話ではない」と悟る。
「――さっきは上手く誤魔化しましたな。今日の午後、本当はあけようと思えばお茶をする程度の時間は作れた筈ですが? 王女様とお茶を飲める機会を逃してまで彼女との時間を避ける理由。よっぽど彼女の事がお嫌いのようですなー」
「……政務の話ではなさそうですね。すみませんが、私は失礼します。
踵を返そうとしたその時、彼の言葉が背後から突き刺さった。
「大変ですなー、その仕事とやら。嫌いな相手の為に何かをするのは、好みではないでしょう?」
――一瞬、足が止まる。
「…………」
背を向けたまま、メアリーは口を閉ざす。モーランはその様子に満足げな笑みを浮かべ、葉巻の煙をふぅと吐いた。
「心配なのでしょう? 彼女に今の立場を奪われるんじゃないかと。貴方は今こう思っている筈だ。――“彼女は邪魔だ”と。さっきも
「……何が言いたいのでしょうか?」
振り返り、睨みつけるように問い返すメアリーに、モーランは涼しい顔で言った。
「僕と貴方の目的は同じ筈です。……ライラをこの国から追放するため、協力しましょうという事ですよ。安心してください。王女様を悪いようにはしません」
その誘いは、柔らかく、それでいてあまりに危険な響きを持っていた。
差し出されたのは、悪魔の手。
だがメアリーの手は、ゆっくりと――その手へと、伸びていった。
――根回しは、念入りに。