目が覚める。窓の外から差し込む光は高い位置からのもので、時刻が昼過ぎである事を示していた。
「うーん……寝すぎた、かも」
かといってすぐに起き上がる気力はなく、ライラは横に寝返りをうった。
「あ」
目が合う。
寝台の脇にはルイディナが静かに立っていた。主の目が開くのを待っていたのだろう。気配を殺すようにしていたにもかかわらず、ライラが目を覚ますとすぐに、柔らかな声が降ってきた。
「お目覚めですか、ライラお嬢様」
寝起きの鈍い思考を引き上げるようにして、ライラは小さく頷く。視界がまだぼんやりとしていたが、ルイディナの整った姿ははっきりとそこにあった。
衣服に皺ひとつなく、その黒髪は一糸乱れずまとめられている。夜のうちから支度を整えていたのか、それともいつものことなのか。そう思わせるほど、彼女の姿には隙がなかった。
部屋の隅には、もうひとりの専属メイド、シャーリーが控えていた。窓辺の帳をやや開け、光を調整しながら、静かにこちらの目覚めに気づいている。
こちらはルイディナとは違い、彼女の艶やかな桃色の髪は寝坊でもしたのか、少しはねており、衣服もやや乱れていた。
「……いま、何時?」
ライラが掠れた声で問うと、ルイディナはすぐに応じた。
「正午はとうに過ぎていますね。起こそうか迷いましたが、あまりにも気持ち良さそうでしたので、フェネリットと相談し、待つことにしました」
完全な寝坊だ。ミルだっていない。
そう気づいても、焦る気持ちは不思議と湧いてこなかった。ただ、どこか身体の奥に残る倦怠感が、夢と現の境をぼやけさせている。
(昨日は色々あって、疲れた。一回死んだわけだし……でも、戻ってくる時間がいつもと違った。あれは、どうしてだろう?)
宰相に突き落とされ、死んでいったシャーリーも救ってあげたい。そう願ったからなのか。それとも、別の何かが関わっているのか。考えても、答えは出なかった。
(ううん。今は手に入れた資料をどうするかを考えるべきだ)
自分では分からない記述も多かったが、ミルや王国の内情に詳しい人物に見せれば、そこからわかる事もあるだろう。
「フェネリット。ライラお嬢様にお水を」
「はい! よいっ……しょ」
シャーリーが慎重な手つきで水差しを持ち上げ、銀の杯に注いで差し出す。ライラはそれを受け取り、一口含んで喉を潤した。
「冷たい……」
「少し冷やしてございます。……お身体の調子はいかがですか?」
その問いかけに、ライラは杯を持ったまま、ぼんやりと天井を見上げた。
「……悪くない、わ。たぶん。ちょっと寝過ぎたくらい?」
「それならよかったです。お召し物を着替えるのを手伝っても?」
「お願いするわ」
「かしこまりました。フェネリットはすぐに朝食を食べられるよう、用意をお願いします」
「分かりました!」
元気よく返事をするシャーリー。その声音に、かつて自分を突き落とした時の面影はなかった。
体調は悪くはない。けれど、昨日の光景がふとした拍子にフラッシュバックする。
あの瞬間、シャーリーの怒りが頂点に達したのがわかった。自分が踏み込んではいけないところまで踏み込んでしまったのだ。そして同時に、彼女もまた宰相に利用されているのだと気付けた。
(シャーリーの私への恨みは、かなり強いものだった。それに……あのとき目の前にいたのは、シャーリーじゃなくて。妹の、コレットだった)
我を忘れ、お姉ちゃんと叫んでいたくらいだ。
シャーリーが魔法を隠していたのではない。そもそも、あれは魔法が使える妹、コレットの方だったのだ。彼女たちは双子。容姿が酷似している。だからこそ、誰にも気づかれずに入れ替わることができた。
(どういうわけか、二人が入れ替わってる。それも、かなり前から……上層部の話を信じるなら一ヶ月ほど前。でも、そもそもその情報が嘘という可能性もある)
ただひとつ言えるのは――現在、この場にいる彼女は「シャーリー」として認知されているということ。もし本当に別人であるならば、あの観察眼の鋭いミルネシアが気付かないはずがない。つまり、ここに入宮した最初からすでに入れ替わっていた、と考えるのが最も自然だった。
ライラの脳裏を、様々な仮説と過去の記憶が駆け巡る。
その間にも、ルイディナが手際よくライラの着替えを進めていく。ベテランメイドにとって、肌着から順に整え、日常着へと手を動かしていくのは慣れたものだった。
「お嬢様、コルセットはいかがなさいますか?」
「しなくていいわ。人前に出るわけでもないのだから」
「かしこまりました」
ルイディナが最後の整えを終えると、ライラは軽く身体を動かし、寝台の縁に腰掛けた。まだどこか夢の名残を引きずっているような、じんわりとした気怠さが残っていたが、意識はすでに現実へと戻っている。
視線を落とせば、銀の水差しを丁寧に片付けているシャーリー――いや、コレットの姿があった。
(どう話を切り出すべきか……)
彼女が本当にコレットであるという確証はない。ましてや昨日の出来事――死の直前に知ったことを口にできるはずもなかった。
「シャーリー」
呼びかけると、彼女はぴしりと姿勢を正して振り返る。
「はい、なんでしょうか?」
「……最近、忙しい? 仕事には慣れた?」
何気ない問い――だが、それは二周目の時間軸で、一人の侍女が“シャーリー”に掛けた言葉でもあった。
唐突な質問に、彼女は一瞬だけ瞬きをしてから、首を傾げて笑顔を見せた。
「はい。皆さん優しくしてくださいますし、お仕事も……すっごく楽しいです」
嘘をついたようには見えなかった――けれど、その笑顔にはどこか違和感が残る。頬の筋肉に不自然に貼りついたような、それでいて必死に自然を装おうとする笑みだった。
「それならよかったわ。心配していたの。ルイディナと違って、あなたはまだ入りたてと聞いていたから。ここで働き始めて、まだ一ヶ月くらいなのよね?」
探りを入れるような言い方に、コレットは一拍の間を置いた後、少し声を明るくして返した。
「……ライラ様。そうですね、まだまだ私は“新米ちゃん”です! なので、ルイディナさんや他の方に、いろいろ教わっているところなんです!」
明確な入宮時期は答えない。その曖昧さが、逆に確信を深めさせる。
彼女の瞳が一瞬だけ揺れた。それが動揺によるものなのか――そこまでは読み取れなかったが、ライラにはそれで十分だった。
(……あなたが誰であれ、今は敵じゃない。少なくとも、今の私は、まだあなたに殺されていない)
昨日の断末魔のような記憶が、頭の奥で微かに響く。あのバルコニーでの最後の瞬間、確かに“彼女”は苦しんでいた。自分を突き落とし涙を流していた。同時に、自分が宰相モーランに利用されていた事実に絶望していた。
(彼女はただの加害者じゃない。協力者になれる……そう思いたい)
だからこそ、今は問い詰めるときではない。真実にたどり着くのは、もう少し先でいい。
すると、ふとコレットが思い出したように手を打った。
「あ、ミルネシア様の秘書官であるメアリー様より伝言を仰せつかっています。ライラ様とお茶をしたいので、都合がよければ食堂へ来てくれとのことでした。私は所用でついていけないのですが、時間は……今からだと三十分後ですね」
ふいに差し込まれた報せに、ライラは軽く目を瞬いた。
「そう、分かったわ。伝えてくれてありがとう。今日は特に用事もないし、出来ることもないから、行くことにする」
思いがけず、今日の残りの予定が決まるのだった。