「じゃあ、また後で」
そう言うと、左掌と右拳を胸の前で合わせ、寧人は夢琪とヘルガに一礼する。
抱拳禮の後、夢琪とヘルガに背を向け、寧人は輕身功を発動する。
寧人が向いたのは、
「また葫蘆泉か」
寧人は修行の後、八卦溫泉と同等の回復効果がある葫蘆泉で、汗を流す場合が多い。
寧人が向いた方向を見て、今日も葫蘆泉に行くつもりなのを、ヘルガは察したのだ。
「寧人も八卦溫泉に入ればいいのに。幾ら回復効果が似たようなものでも、あんな小さい温泉に入るより、大きい八卦溫泉の方が、気分がいいだろ」
「いや、ヘル姐が入るのなら、俺が入る訳にはいかないでしょ!」
からかわれていると思った寧人は、振り返りながら、渋い表情で言葉を返す。
「それに、基本的には女性用な訳だし、八卦溫泉は!」
「ここに来た日に、堂々と飛び込んでたじゃないか。しかも、客が入ってるのに」
「あれは事故だよ、事故!」
強い口調で、寧人は言い訳をする。
「女の人が入ってる風呂に入る程、俺は非常識な男じゃないから!」
「幾ら女と男だからといって、僕達は姐弟も同然なんだし、一緒に風呂に入っても、非常識なことでもないだろ」
「いや、非常識だから! 子供ならともかく、もう大人なんだし、そもそも付き合っていない女とは、一緒に風呂に入るなってのが、爺ちゃんの遺言だから、入れないって!」
「お前の爺さんは、いったい遺言をいくつ遺したんだよ?」
ヘルガは呆れ顔で、寧人に訊ねる。
寧人が言い訳をする時、祖父の遺言を持ち出したのを、何度もヘルガは耳にしているのだ。
会話を聞いていた夢琪が、気楽な口調で口を挟む。
「二人共、まだ子供みたいなもんじゃないか」
「そりゃ梁師に比べたら、子供みたいなものかもしれないけど、俺達一応……成人年齢の大人ですから!」
そう言う寧人は、もうすぐ十九才になるし、ヘルガは二十四才。
寧人は顔立ちのせいで、ヘルガは十四才の時、老化が止まってしまったせいで、どちらも実際の年齢よりも、若くは見えてしまうのだが、二人共サウダーデの成人年齢を超えているのだ。
でも、三百才を超える年齢の夢琪からすれば、寧人もヘルガも、子供のようなものなのである。
「じゃあ、俺は行きますんで、また後で!」
寧人は会話を打ち切ると、再び二人に背を向けて、西に向かって走り出す。
輕身功を発動している寧人の姿は、あっという間に遠ざかり、塀を跳び超えて姿を消す。
「……それにしても、随分と親しくなったようだね、人見知りなとこがあるヘルガにしては」
寧人と軽口を叩き合っていたヘルガに、夢琪は率直な感想を漏らす。
「初めて会った頃とは、えらい違いじゃないか」
「まぁ、修行は真面目にやってますし……」
やや照れ臭そうに、尻尾を左右に大きく振りながら、ヘルガは言葉を返す。
「龍共から人々を守る為に、強くなろうという志もある子ですから。色々と気にかけてやりたくもなります」
出会い方は最悪と言えたのに、今では軽口を叩き合える程度に、ヘルガと寧人は親しい関係になっていた。
修業に関しては真剣であり、未熟とはいえ成長も速い寧人への評価を、ヘルガが改めたせいである。
「それに、一度は死んで蘇り、普通の人ではなくなってしまった者同士という、仲間意識もあるのかもしれません」
ヘルガは小声で、そんな心情を漏らす。
死んで
レヴァナントとは、一度死んだ人間が生き返り、不老不死となり、人間を超えた身体能力を得た存在だ。
滅多に出現しないのだが、以前は妖魔として扱われ、退治されていた時代もある。
ヘルガがレヴァナントとなった時代には、武仙幫の働きかけで、人間として扱われるようになった。
ただし、武仙幫が監督下に置くという条件付きではあるのだが。
「……そうか」
感慨深げに、夢琪は呟く。
夢琪にも、自分と少しだけ違うとはいえ、寧人は数少ない仙人という同族で、強い仲間意識があった。
「同じカンパニーに属しているというだけでなく、レヴァナントであるお前にとっても、仙女であるあたし達にとっても、数少ない仲間なのだな、寧人の奴は」
夢琪の言葉に、少し驚いた風に目を大きくして、ヘルガは頷く。
自分だけでなく、師匠の夢琪にも、寧人への仲間意識があるのを知り、ヘルガは少し驚いたのだ。
「修業に付きっ切りのヘルガとは違うが、ジーナの奴も寧人を可愛がっているようだ。あたし達同様、ジーナにも寧人には、強い仲間意識があるんだろうね」
ヘルガだけでなく、ジーナもレヴァナントである。
現在の武仙幫に所属する三人の弟子は、揃って過去に死んだ経験がある、不老不死の存在というになる。
「それは、どうだか……」
ヘルガは呆れたように、顔を顰める。
「ジー
ジーナの方がヘルガより年長であり、武仙幫に入ったのも先なので、ヘルガからすれば師姐ということになる。
最初の頃、ヘルガはジーナを「ジーナ師姐」と呼んでいた。
だが、ジーナに「ジー姐」と呼ぶように頼まれたので、その後はそう呼ぶようになったのである。
要するに、ヘルガが寧人に、自分を「ヘル姐」と呼ばせているのは、ジーナからの影響なのだ。
ちなみに、寧人もジーナのことを、「ジー姐」と呼んでいる。
「違う理由?」
小首を傾げ、少しだけ考えた夢琪は、生真面目なタイプであるヘルガの、不愉快そうな表情を見て、何のことを言っているのか察する。
「あの子からすれば、レヴァナントになって初めて出会った、相手にしても死なない男だから、仕方がないさ」
夢琪が少しも驚かず、そんな言葉を口にしたのを聞いて、ヘルガは気付く。
ジーナと寧人の関係を、夢琪が既に知っていたことを。