賢者になるための本試験前日。
この日カレンは、身体の負担を最小限にするため、午前中を訓練の時間に充てていた。
「はあ、やっぱりカレンの魔法は綺麗だな」
「あ、ありがとう。ファウストに褒められると特別に嬉しいわ」
うっとりした様子で紫雷を見つめるファウストに、カレンはぎこちなく答える。
全能賢者と呼ばれ、賢者で一番実力のあるファウストに褒められると、恥ずかしいのと嬉しいのとで気持ちが乱れてしまう。
(ファウストへの気持ちを自覚してから、こんな風に褒められるとどうにも落ち着かないのよね……)
ミカエルを追い詰めるのは賢者の本試験後の計画だ。
魔法の訓練が終わり、カレンはファウストから思いもよらない提案をされた。
「カレン。よかったら、この前のデートをやり直さない?」
「えっ」
この前のデートはロニーのふりをしているミカエルに邪魔され、それどころではなくなったから心残りではあった。
それがやり直せるなら、ぜひそうしたい。
「それとも本試験前日だからやめておく?」
「いいえ、リベンジデートしたいわ!」
カレンの力強い発言にファウストは破顔する。キラキラと輝く笑顔の夫に心臓を鷲掴みされ、カレンは頬がカッと熱くなった。
(うう、ファウストの笑顔が眩しくて心臓がバクバクしっぱなしよ……!)
そんな様子は少しも出さず、一度部屋に戻って準備を整える。
やり直しということもあり、ふたりともこの前と同じ衣装で出かけることにした。
「ところで、今日はどこに行くの?」
「カレンが本試験を頑張れるように、ちょっと遠出しようと思う」
「遠出できるの!?」
「うん、いろいろ調査も進んだから危険ではないと判断できるし」
確かに、カレンが避けるべき相手はこの魔天城にいるのだ。むしろ外の世界の方が安全かもしれない。
「すごく楽しみ……! もしかして海や山に行ける?」
「それはお楽しみ」
そう言って、ニヤリと笑うファウストの笑みは転移魔法の金色の光に包まれ、カレンは眩しさで目を閉じた。
ふわりとした浮遊感を感じた後、すぐに地面の感触が足元から伝わってきて、転移魔法が成功したと思ったカレンは目を開ける。
すると、目の前に広がっていたのは青い世界だった。
太陽の光を受けて光を反射する海には波が白い模様を描き、雲ひとつない青空は地平線で海面と交わっている。
潮の香りが鼻を掠めて、穏やかで優しい波の音がカレンの鼓膜に響いた。寄せては返す波が足元まで迫ってくる。
「う、海だわ……!」
「前にリクエストされたから」
「ファウスト、ありがとう!」
カレンは弾む心でブーツを脱ぎ、まだひんやりする波に足をつけた。指の間を砂と共に海水が通り抜けて、大海原に戻っていく。
「ふふっ、なんだかくすぐったい感じがするわ」
「僕も海に入る」
ファウストも靴を脱ぎ、ズボンの裾を捲ってカレンの隣にやってきた。足首までの浅瀬でファウストとカレンは手を繋いで歩き始める。
「砂の上ってすごく歩きにくいのね」
「あれ、海は初めてだっけ?」
「領地は山ばかりだったし、王都に来てからは魔法の勉強や聖女の役目ばかりで、来たことがなかったの。だから、ファウストと一緒に来ることができて嬉しいわ」
羽のように軽い心でファウストへ笑みを向けた。
しかし、ファウストはどことなく悲しげに笑みを浮かべている。波打ち際を話しながら歩き続けたが、ファウストの表情から陰りが消えない。
(ファウストなら一緒に喜んでくれると思ったけど……もしかして契約結婚が終わるのも近いから、それで……?)
ふたりが結んだ契約結婚は、カレンが賢者になるまでの期間限定だ。そう考えるとファウストは思い出作りのために、遠方のデートに誘ってくれたのかもしれない。
(だからそんなに悲しそうなの? これからも一緒にいられるのに……)
カレンは考えた。
愛しい夫にこんな表情をさせたくない。もし賢者の本試験に合格しても結婚を継続したいと、今は思っている。
(魔道具開発の邪魔をしたくないから、私が賢者になってからと思っていたけど……気持ちだけ伝えてもいいのかも)
カレンがちゃんとファウストを愛していると伝えたら、彼の瞳から悲しみが消えるだろうか。
最近は以前のように一緒に過ごすこともできて、魔道具の開発もだいぶ落ち着いたようだし、賢者の本試験まで待たなくても問題なさそうではある。
どうにかしてカレンはファウストの憂いを払いたい。前みたいに屈託のない笑顔を向けてほしいと思った。
(それなら、もう言っちゃおう。ファウストを、愛してるって)
カレンはファウストと繋いだ手をギュッと握って立ち止まる。
「どうしたの?」
ファウストが不思議そうな顔で、カレンを見つめた。
「ファウスト……」
カレンは喉がカラカラになって、言葉がうまく出てこない。気持ちを伝えることが、こんなにも勇気を必要として大変なことなのだと初めて知った。
「あの、あのね」
「うん」
「あの……私ね」
どんどん顔が熱くなって、変な汗が吹き出ている。この態度だけでファウストなら察してくれそうだが、ジッとカレンを見つめたまま身動きしない。
カレンは意を決して、ファウストを見上げた。
琥珀の瞳が太陽よりも輝き、カレンの視線を釘づけにする。
「私、ファウストを――」
「待って、それ以上言わないで」
ところが、カレンの決意も虚しく、ファウストが待ったをかけた。
言葉に詰まったカレンをそっと抱きしめたが、ファウストの手が震えている。
「ごめん、今聞いたら我慢できなくなるから、それ以上聞けない」
「そ……そっか。ごめん」
「カレンは悪くない。僕の問題だから」
そう言って、ファウストはいつものように甘い視線でカレンを見つめた。でもやっぱり、その表情には嬉しさと悲しさが入り混じっている。
(私の気持ちはファウストに伝わってた!? でも、それなら、どうして悲しそうにしているの……?)
ファウストの心の機微が読めずカレンが困惑していると、いつものようにハチミツみたいな甘い声で囁いた。
「カレン、愛してる。誰よりも、いつまでも」
そして、そっとカレンの額に口づけを落とす。
熱く柔らかな口づけは一瞬で去っていった。
カレンは一瞬なにが起こったのか理解できなかったが、やや遅れて額にキスされたと理解し、顔どころか全身が真っ赤に染まる。
「そろそろ帰ろうか」
気が付けば西の空がうっすらとオレンジに色を変え、風も冷たくなっていた。カレンは火照る頬を冷えた手で冷やしながら頷く。
(うううう……し、心臓が壊れそう……!!)
まともにファウストの顔を見れないまま、カレンは本試験前日を終えた。