ファウストが部屋からいなくなった。
もしかしたら、気が変わってファウストが戻ってくるかもしれないと思い数日待っていたが、部屋を訪れたのは賢者になったカレンへの通達だけだ。
賢者専用の私室の案内と、賢者の証である濃紫のローブが届いたが、カレンの心は壊れたみたいに動かない。
ひとりきりになった部屋で濃紫のローブを羽織り、ふたりで談笑していたソファーへ腰をおろす。
(涙すら出ないなんて、悲しみにも耐性がつくものなのね……)
ファウストに別れを告げられて、胸が潰れそうなほどショックを受けたのは事実だが、サイラスの裏切りを知った時のように涙が出てこない。
しかし、ずっとふたりで過ごした部屋にひとりでいることが耐えられず、カレンは新しく与えられた賢者の私室にやってきた。
ベッドと机しかない部屋で、カレンは膝を抱えて夜を過ごす。
(やっとファウストが好きだと気が付いたのに、あっさりと振られちゃった……)
窓の外には細い月が浮かんでいて、静かに室内を照らしていた。月光が優しくカレンを包むが心は凍ったままで、アメジストの瞳からは希望の光が消えている。
(なにもいらないから、ファウストと一緒にいたかっただけなのに)
最初の婚約者には殺されて、夫になった人には捨てられて、カレンは人生にすら疲れきっていた。
(なんで、うまくいかないのかな……私のなにが悪いんだろう)
ファウストの優しい笑みが脳裏に浮かぶ。
何度も何度もカレンに想いを伝えてくれた。甘くとろけるような時間、ファウストの全身からあふれ出す愛に包まれて、どれだけ安心できたことだろう。
(それが変わったのは魔道具の研究が忙しくなってから……あの頃からもう気持ちが離れはじめたの?)
カレンは静かにファウストの様子を振り返った。
いつからあんなに悲しげに笑うようになった?
いつからカレンへの想いに変化があった?
いつから――
(待って、ファウストはずっと愛を告げてくれていた。その言葉が嘘だったとは思えない……)
でも、現実はファウストから別れを告げられた。これからはファウストがいない未来を歩んで行かなければならないのだ。
もしかしたら、他の誰かと添い遂げる未来を。
(……ありえないわ。私は、ファウスト以外の誰かと結婚なんてしたくない)
カレンの心がキッパリと拒否をした。それならどうするのか、と自分に問いかける。
(馬鹿だと思うけど……ファウストをあきらめることなんてできない。復縁が無理でも、せめて別れを選んだ理由を知りたい)
もう一度話をしようとファウストの私室へ向かうが、室内に人の気配はなく扉は施錠されていて部屋に入ることもできない。
そもそもカレンはこの部屋に入ることを許可されていなかった。整理を手伝うといっても拒否されたのだ。
つまり、ファウストは最初からこの部屋にカレンを入れるつもりはなかったということになる。
カレンはそこまで拒絶される理由がわからなかった。だからこそ、ファウストと話がしたいのに、愛しいひとはどこにもいない。
「私はもうファウストと話をすることもできないの……?」
ファウストの私室の開かれることはなく、カレンの言葉は静まり返った通路に霧散した。
それからどれほど時間が経ったのだろうか。
ふと、背後に人の気配を感じて振り返った。
「あ……セト様」
「……どうしたの?」
セトはそっとカレンに寄り添い問いかける。
カレンは事実を話そうかどうか一瞬迷ったが、隠したところですぐに知られると思い事実を打ち明けた。
「ファウストが、カレンと離縁……ありえない」
「いいえ、事実です。せめてもう一度だけ話をしたいのですが、ファウストがどこにもいなくて……」
セトは額に指先を当て、土人形を介して城内の様子を探っているようだ。数十秒後、「ふうっ」と短く息を吐き出しカレンを見上げた。
「ファウストは魔天城にいない」
「……やっぱりそうですか」
「でも……このままじゃよくない」
セトはなにかを決意した様子で、カレンの手を引く。
「あの、どこへ……?」
「レイドルのところに行く。魔天城の管理者だから、この部屋を開けてもらう」
「でも、それは許されるのですか……?」
「黙って消えたファウストが悪い」
レイドルは魔天城の管理者として、緊急時には独断で城内の部屋に入る権限がある。魔天城へ入城する際の同意書にそのことも書かれていた。
魔天城では魔法が失敗して部屋から出てこられなくなる未熟な魔法使いもいるため、救命措置の一環かと思っていたがそれだけではないようだ。
しかも、それは賢者も対象となっているため、レイドルが必要だと判断して許可が得られれば、カレンがファウストの私室へ入ることができる。
「カレンは、ファウストの真実を知る権利がある」
セトの言葉にカレンは胸がざわつく。
(ファウストの真実って、どういうこと……?)
カレンはまだ知らない真実があると聞かされ、ファウストが別れを切り出した原因はそこにあるかもしれないと思った。
* * *
レイドルの手には一通の手紙が握られていた。
渋い顔でじっと考え事をしているが、その原因が手にしている手紙でファウストからの離婚申請書であった。
昨日届いた手紙には、【カレン・エヴァリットとの婚姻解消の申請をする】と書かれており、どうしたものかと思いあぐねている。
(ファウストはあれほどカレンさんを愛していたのに……やはり身体に欠損があることが原因なのか)
レイドルは男としてファウストの気持ちがなんとなく理解できた。
自分が心から愛する女を守るのは、自分自身でありたい。いつでも頼りになる存在でいたいし、困った時はどんなことをしても駆けつけて力になりたい。
しかし、もし自分が病にかかったり、大怪我をして自由が効かなくなったりしたら?
そうなっても愛する女を守れると断言できるのか。もし、心の底から愛しているのなら、彼女の未来を
「ファウストは真面目だからなあ……」
きっとそんな自分が許せないのだろう。いつだって愛する女の前では強くて頼り甲斐のある自分でいたいのだ。
おそらくファウストの病状は悪化していて、完治が望めないのだとレイドルは察した。そうでなければ、あのファウストのことだから、なんとしてもカレンのそばにいるはずだ。
だから愛する女が悲しむとわかっていても、総合的に考えて別れる選択をした可能性が高い。
ファウストの願いを叶えるなら、この申請書を受理すべきだ。
(でも、それなら、ファウストの幸せはどこにあるんだ?)
レイドルは賢者をはじめとした魔法使いたちが幸せになることを願っている。
そのために面倒な魔天城の管理者をやっているし、日々、各国と渡り合っているのだ。
「俺は、ファウストにも幸せになってもらいたんだよな」
レイドルはファウストから届いた離縁申請書を引き出しにしまった。