カレンとファウストは帰路を急いだ。
やっと手に入った月露の雫を試したい衝動を抑えつつ、大切にしながら馬車を乗り換え魔天城が浮かぶ海を目指している。
ガタガタと揺れる馬車の中で、カレンとファウストは寄り添いながら小瓶を握りしめていた。
「はあ、でも僕が昏睡状態になっている間が心配だ」
「それくらいは大丈夫よ。賢者のみんなもいるから」
「というか、その間のカレンを知らないのが嫌だ」
「まあ、意識がないから仕方ないわよね」
妻のことを余すことなくすべて把握しておきたいというファウストの発言に、カレンは少し呆れつつ苦笑いを浮かべる。
「月露の雫を飲む前に、長時間記録できる水晶を開発するか……」
「それは却下よ。魔天城に戻ったら、すぐに飲んで」
「でも基礎は出来上がっているから、記録時間を伸ばすだけだし」
「駄目。私のことが大切なら、戻ったらすぐに飲んで」
「……わかった。カレンがそこまで言うなら……その代わり、どんなことがあったか話を聞かせて」
ファウストは渋々といった様子で頷いた。
(もしかしたら、これまで何度も私が死んできたから過敏に反応しているのかも……)
もし、カレンがファウストの私を何度も目にしてきたら、と考える。想像しただけで胸が張り裂けそうなほどつらくなった。
だからファウストが少しくらいおかしな発言をしても、責める気にはなれない。
(あ、そっか……聖教会から戻ってきた時にファウストが泣いたのも、私が死んでしまうかと思って気が気じゃなかったのね……)
あの時は本当に驚いて大袈裟だと思ったが、巻き戻りの真実を知った今は、ファウストがどれほどの思いで待っていたのかと胸が苦しくなった。
ふとしたことでファウストの深い愛を実感する。
こんなにもカレンを愛してくれる人は他にいない。だからこそカレンも誠実に応えたいと思う。
「ファウストに毎日手紙を書くわ。なにがあったのか、どう感じたのか。目が覚めたらそれを読んで、それでも不安だったらなんでも聞いて。ファウストが安心するまでいくらでも話をするから」
「うん……ありがとう」
ようやく安心したのか、ファウストがふんわりと微笑んだ。
——ガタンッ!
その時、突如、馬車が大きく揺れて停止した。
「……っ、どうしたのかし——」
「うわあああああああっ!」
カレンの声に被せるように御者の叫び声が響き渡り、バタバタと逃げ出すような足音が聞こえる。
異常事態を察したカレンが外に出ようとするが、ファウストに腕を掴まれた。
「カレン」
ファウストの表情は先ほどとは打って変わり、視線は馬車の外へ向けられていて、
(こんなに神経を張り詰めるファウストは初めてだわ。なにが起きているの?)
次の瞬間、馬車の外が漆黒の霧に包まれる。それを見た瞬間、カレンの全身にゾクゾクと悪寒が走った。
(この黒い霧——まさか……!)
「カレン、ミカエルだ。僕から離れないで」
「わかったわ」
迫り来る危険を察知し、ファウストはカレンの肩を抱き寄せる。
前後左右を黒い霧に囲まれて、カレンたちは逃げる術がない。いっそ攻撃に転じようかと思ったが、ファウストがこの身体で動けるのかとカレンは躊躇した。
だが、迷ったのはほんの数秒だ。このままここで朽ち果てるくらいなら、もがきあがいて活路を見出したい。
「ファウスト。行くわよ」
「カレン……!」
カレンは紫雷を身にまとわせて、馬車の扉を吹き飛ばす。そのまま反撃の隙を与えないように雷魔法を扉に向かって放った。
——バチバチバチバチッ!
弾けるような音を立てて、紫雷が走り黒い霧を打ち消していく。
(よかった、ちゃんと黒い霧を防げているわ)
カレンはファウストの手を引いて、馬車から飛び降りかけ出した。その直後、背後からバキバキバキバキッと馬車が破壊される音が聞こえてくる。
街道の真ん中で辺りには建物がなく、たとえどこかに隠れたとしても、黒い霧はわずかな隙間に入り込んでくるから逃げ場もない。
紫雷を放ちながら、追いかけてくる黒い霧をカレンはキッと睨みつけた。
「もう! しつこいわねっ!」
苛立ちをぶつけるように、カレンは大きな紫雷を四方八方に放つ。紫雷を受けた黒い霧は消えてなくなるが、すぐに補充されてきりがない。
(私の魔力かミカエルの魔力が尽きるまで続けるつもり……?)
こんなところで足を止めている場合ではないのだ。カレンは一刻も早くファウストに月露の雫を飲ませて、失ってしまった手足を回復させたい。
「ミカエル・バルツァー、姿を見せなさい。私がここでちゃんと仕留めてあげるわ」
カレンは足を止めて振り返る。ミカエルはプライドが高いから、カレンが挑発したらきっと姿を見せるはずだ。
「——ふははははっ! 誰が誰を仕留めるだって?」
直後、カレンの背後から怒りを
目の前には青い髪をなびかせて、血走った目を見開き、青筋を浮かべたミカエルが宙に浮いている。
頭には悪魔のような角が二本生えていて、三対の黒翼がはためいていた。
魔天城でかなり追い詰めたはずなのに、ミカエルからは闇の力があふれ出ている。
「本当にしぶとい男ね」
「魔神デーヴァと一体となった私は神そのもの。生贄さえいれば私が死ぬことはない」
「まさか、この周辺の村人たちが消えたのは……」
「お前のために下等な人間も利用しただけだ」
「お前が私を倒すのは無理だ。カレン、もう一度やり直すぞ」
「やり直す……?」
「ああ……お前を殺して、そこの男に時間を巻き戻させる」
ファウストがどれほどの想いで時間を巻き戻したのか。そのせいでファウストの身体がどんな状態になっているのか。
そもそも、ミカエルの歪んだ一方的な愛が、どれほどの悲劇を生んだのか。
(この男はなにもわかってない……!!)
ミカエルの言葉でカレンの怒りが爆発した。
「ふざけないで……! 貴方の私利私欲のために私のファウストを傷つけるなんて、絶対に許さないから!!」
心が荒ぶって、感情と共に魔力が全身を駆け巡る。
「雷神召喚」
カレンの頭上に天空から目が
雷の究極魔法は術者自身が雷神をその身に召喚して、敵を殲滅させるものだ。術者の身体が砕け散ろうとも、敵を殲滅するまで戦い続ける魔法である。
(許さない……! ファウストの心を踏み躙るようなこと、私が絶対に許さない……!)
「ディア・イクシ——」
「カレン、駄目だ——!!」
しかし、雷神を召喚し一体となろうとしたその時、ファスストの悲痛な叫び声がカレンの耳に届いた。
意識が逸れた瞬間、バチバチッと音を立てて、カレンの身体から雷が放出される。
「究極魔法だけは、駄目だ」
ファウストの瞳が揺れて、声が震えていた。
自分と同じ道を辿るなと。カレンは魔法使いの禁忌を犯してはならないと。
どんな想いでファウストがそう言っているのか想像したカレンは、グッと唇を噛みしめる。
「はははっ! そうだ、お前に私は殺せない。あきらめて私のものになるんだな」
「お断りよ! ウィオラ・ベス・トニトルス!」
カレンは特級魔法を放って黒い霧を蹴散らした。ミカエルは黒い翼で大きな膜を作り、紫雷を防ぐ。
「ふっ、この程度の攻撃か……今世はもう終わりにするぞ」
ミカエルはカレンとファウストを黒い霧で取り囲み、笑みを浮かべた。