【斉】の臨淄には及ばないまでも、この邯鄲という邑は中華大陸屈指の繁華を誇り、その華やかさと喧騒ぶりには目を見張るものがあった。
楽毅は邯鄲の大通りに入ると、何かを物色するように無数に立ち並ぶ市を丹念に見て廻る。
ふと、その足が一軒の露店の前で止まる。そこは武器商人の店であった。
「ご主人。そこに並んでいるのは楚鉄ですか?」
楽毅は木箱にみっしりと納まった白色の塊を指差して訊ねる。
「……いかにも。正真正銘、【楚】の国から取り寄せた上質の銑鉄でございますよ」
椅子に腰かけたままうつむいているひとりの若い男が彼女を一瞥し、低く凝った声で答える。
猫背で醜男だが、服越しからでも極限まで鍛え上げられた膂力がくっきりと浮かび上がる。
──齋和の屋敷でわたし達を案内してくれた方に雰囲気が似ているわね。
と、楽毅はふと思った。
「この楚鉄、どれ程ありますか?」
「全部で十箱、ございます」
箱をポンと叩き、男は力強く答える。
楽毅は展示されている他の商品もじっと見回してから、
「では、楚鉄と弩をあるだけ全て売っていただけませんか?」
男にそう告げた。
これには商人の男よりも楽乗の方が驚いた。
弩はともかくとして、鉄をそんなに買いこんで何に使うのか。いや、それ以前にお金が無い。正確には無い訳ではないが、今手持ちにあるのは楽毅の為にと彼女の父が渡してくれた学費など、合計五十金程である。
クズ鉄ならともかく、“鉄といえば楚鉄”と称されるほどの一級品である。どう考えても桁がひとつ違うのだ。
「もちろん、お売りできます。ただ、わたくしはいつも一番高額の値を付けてくださった方にお売りしておりまして、すでに貴族の方などから多数のご入札がございます。さて、貴女はいくらの値を付けてくださいますか?」
男は浅黒く日焼けした頬を擦りながら、まるで試すように問う。
「そうですね……。わたしが出せるのはこれくらいでしょうか」
楽毅は懐から巾着袋と一枚の竹札を取り出し、男に差し出した。
男がそれを受け取る。
そして孟嘗君こと田文姫の名と桃の印が刻まれた竹札をしばらく注視して、
「……なるほど。これはとんでもない高値を付けていただきました」
ニヤリと口元を歪ませ、
「かしこまりました。この値で貴女にお売り致しましょう」
そう言って拱手を向けた。
「ありがとうございます」
礼を返す楽毅。
「それで、今日中に出立したいのですが……」
「かしこまりました。どちらまで運べばよろしいのでしょうか?」
「……【中山国】まで」
その言葉に男はハッと息を呑むが、すぐに笑みをこぼし、
「なるほど。貴女はわたくしよりも商いが上手でございますな」
そう言って立ち上がった。
「すぐに馬車と従者と、それに旅費も用意させましょう」
「ありがたい事でございます。しかし……なぜ、わたしの如くただの娘にそこまで良くしてくださるのですか?」
孟嘗君の威光にすがり、それが実った結果だが、あまりにもうまく事が運び過ぎると感じた楽毅は逆にその不審を訊ねる。
「わたくしは孟嘗君とは直接の面識がございません故、かの者が噂通りの御仁であらせられるかは判じ得ません。ですが、その養父であらせられる伯翁はわたくしに商売人としての道を示してくださった大恩人です。そうした縁から、わたくしは貴女を信頼するのです」
縁──
まさに人と人との繋がりが楽毅(がくき)に味方した瞬間であった。
『縁の糸が歴史を紡ぐ』
齋和も澪も、そう言っていた。
その言葉の重みをまざまざと実感した楽毅(がくき)は、
「ご厚意、感謝致します」
もう一度深々と礼を向けるのだった。
「わたしは楽毅と申します。どうか、アナタの名をお聞かせ願えませんか?」
「わたくしは楊星軍。楊商会の頭でございます」
楊と名乗った男は、うやうやしく拝礼する。
ふわり、とひるがえった袖の真ん中には、太極図が描かれていた。