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第4話 もう下がってよい

「……今、何とおっしゃられました?」


 異様なまでの静寂と、全身にまとわりつく重苦しい空気を切り裂くように、青年はゆっくりと声を発する。


 絞り出すように排出されたその声は普段以上に低くこごり、まるで自分のものでは無いのでは、と彼自身が感じてしまうほどであった。


「……趙何ちょうかを次期【ちょう】王とする。よって趙章ちょうしょう。そなたは太子たいしではなく公子こうしとなる」


 目の前の玉座に座す虎皮の衣をまとった男から向けられたその冷酷な言葉は、先ほど聞いたものと一言一句の違いも無かった。


 太子たいしとは次期国王を確約されたいわば序列競争における勝者の座であり、彼には輝かしき未来が待っているはずであった。そうであると、彼自身微塵も疑うことは無かった。


 しかし、虎皮の衣をまとった男──実父である武霊王ぶれいおうから向けられたその宣告は、そんな約束された栄光を粉々に打ち砕く無慈悲なものであった。


 そもそも、古来よりこの中華大陸では王位は長子が継承するのが当然の習わしである。その任に耐えられないよほどの事情でもない限り、たとえ王といえどもそれをくつがえすことは難しいのだ。


 さて、この趙章ちょうしょうという青年が次期国王としての資質を備えているかと問われれば、たしかに彼は粗野粗暴で思慮に欠けるなど欠点が多々あることはいなめない。

 しかし、そのような例を挙げればこれまでの歴史上だけでも枚挙まいきょいとまが無く、それを家臣一堂が支えて運営し、次世代へと繋いでゆくのが国家というものである。


 それにも関わらず──


 この青年は一方的に廃嫡を突きつけられたのである。

 それは万死にも勝る屈辱であり、耐えがたい疼痛とうであった。


「【中山国ちゅうざんこく】を滅したことにより、その先にある領国──だいへの往来が容易となった。そなたにはそこをべてほしい」


 叩頭こうとうしたままわなわなと体を震わせる趙章ちょうしょうに、武霊王ぶれいおうはさらなる言葉を浴びせかける。


 だいの地は【ちょう】の国都・邯鄲かんたんより北東にあり、小国・【えん】や北方異民族領に接した僻地である。

 たしかに広大な地ではあるが、強国に接した最前線に比べれば遥かに重要度は低く、そこに送られるということ自体が期待の低さを表していると、きっと誰もが感じるであろう。


 父上は──


 さまざまな感情が胸の中でい交ぜとなったまま、趙章ちょうしょうは悲鳴にも近いかすれた声を絞り出した。


「父上は私を無能とお見捨てになられるのですか? 先の戦で醜態をさらした私は、もう必要無いとおっしゃられるのですか?」

「……」


 武霊王ぶれいおうは小動物のように打ち震える我が子を見下ろしながら、その問いに対しては黙秘を貫いていた。


 一方的な廃嫡を行えばこうなることくらい、武霊王ぶれいおうは当然承知していた。承知の上でなお、姚妃ようひのために──明日をも知れぬ重病をかかえた愛する女性のためにと決行したのだ。


 彼自身、趙章ちょうしょうの至らなさには頭を悩ませていたが、それでも決して憎んでいる訳ではなく、むしろその至らなさを愛してさえいた。


 それでも武霊王ぶれいおうは残酷な決断を下した。

 せめてもの罪滅ぼしとして、後にだい七雄しちゆうと肩を並べる国家として独立させ、その王に据えよう、と先を考えて。


 しかし、今はあえてそのことは伏せていた。この屈辱を糧に、覇者としての自覚を芽生えさせるために。

 そのために、恨み辛み憎しみのすべてを自らが請け負うのだ。


「正式な辞令は後ほど下す。もう下がってよい」


 突き離すようにそう述べると武霊王ぶれいおうは玉座から立ち、ひれ伏したままの趙章ちょうしょうの脇を無言で通り過ぎてゆく。


 たったひとりその場に取り残された趙章ちょうしょうは、気が狂ったように額を何度も床に打ちつけた。皮膚が裂け、血が飛び散ろうとも、何度も何度も。

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