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第5話 もう潮時なのですよ

「うおォォォォォォォォォォッッッ‼︎」


 怒りが収まらない青年──趙章ちょうしょうは、自室に戻るなり胸に沸々ふつふつと際限なく湧き上がる感情を爆発させ、野獣のごとく咆哮を上げながら手にしていた杯を力の限り床に叩きつける。


 ガシャン、という甲高い音がそれに追随(ついずい)して室内に響き渡ると、側にいた女中たちはひぃ、と声を上げて奥へと引っこんでゆく。


 コロコロ、と杯は中に注がれていた酒を撒き散らしながら転がり、ひとりの男の足元に当たってピタリと静止する。

 その際、最後に残っていた酒がその男の靴にかかり、奇形の染みとなる。


 蛙のごとくギョロリと大きくいた目でその光景を見下ろしていた男は、声を荒げる青年の方へゆっくりと視線を向ける。


「私が廃嫡されてあの貧弱なヤツが王になるだとッ⁉︎ 父上は一体何をお考えなのだッッッ‼︎」


 趙章ちょうしょうはそう言って何度も卓に拳を叩きつける。やがて指の関節付近に血が滲み出し、卓を赤く染め上げてゆく。


「……落ち着いてください、若殿」


 蛙のような大きな目を持った男──田不礼でんぶれいがあくまで冷静な口調でいさめる。


「これが落ち着いてなどいられるか⁉︎ 廃嫡だぞ? だいへ送られるのだぞ?」


 当然、血の気の多い趙章ちょうしょうの怒りがそれで収まるはずもなく、異様なまでに血走った目で田不礼でんぶれいめつける。


「最近、宰相さいしょう肥義ひぎどのをはじめとする重臣たちの間で、何やら密約のようなものが交わされているのを耳にしておりました。おそらく、此度こたびの辞令に向けた根回しだったのでしょう」


 それでも世話係である田不礼でんぶれいは、淡々とした口調で語る。


「何だと⁉︎ すでに決定事項だったというのかッ?」

「ええ。こうなってしまったら、決定をくつがえすのはもはや困難かと……」

「くそっ、何てことだ……」


 怒りを通り過ぎて、呆然と膝を落とす趙章ちょうしょう


「……なのですよ」


 がくりと項垂うなだれる青年を見下ろしながら、田不礼でんぶれいが何事かポツリと漏らす。


「何か言ったか?」

「いいえ、何も。それよりもだいへの赴任ですが、これは逆に挽回に向けた好機チャンスであると考えられますぞ」


 趙章ちょうしょうの問いを掻き消すように、田不礼でんぶれいは含みのある言葉を向ける。


「この屈辱的な左遷が好機チャンスだと? 一体どういうことだ?」


 怪訝けげんそうに首をかしげる趙章ちょうしょう

 田不礼でんぶれいはその特徴的な大きなまなこをギョロリと動かし、周囲に誰もいないことを確認してから、


「それではお耳を拝借」


 趙章ちょうしょうの側に歩み寄り、その耳元でそっとささやく。


「何だとッ⁉︎」


 話を聞き終えると、趙章ちょうしょうは驚いた様子で大きく目をき、


「……なるほど、それはたしかに面白い考えだ」


 すぐに引きつったような笑みを浮かべた。


「母親が気に入られたというだけでちやほやされている趙何ちょうか……。ヤツに一泡吹かせてやれるのならば、此度こたびの辞令も甘んじて受けてやろう」


 武霊王ぶれいおうの思いも虚しく、歪んだ復讐心を義弟おとうとへと向ける趙章ちょうしょうは、自らが思い描く復讐劇を想像しながら哄笑こうしょうする。


「……もう潮時なのですよ、趙章ちょうしょう様」


 そんな青年に冷めた視線を向けながら、田不礼でんぶれいは再びポツリと漏らす。

 しかし、その言葉は異様なまでの高揚に身を震わせる趙章ちょうしょうの耳に届くことは無かった。

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