*┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈*
「リズロッテ様っ!」
重い足取りでサロンを出たリズロッテを呼び止めたのは。
部屋が隣同士の公爵令嬢、エミリオ・アン・ジャレット。リズロッテの数少ない理解者の一人だ。
エミリオの後ろには、後宮に来たばかりのフィフィー・フォン・ライラックが両手を胸の前に組んで遠慮がちに立ち、リズロッテの顔色を伺っている。
「エミリオ様……それにフィフィー様も。どうかされましたか?」
「先ほどは殿下がいらして。緊張してお茶もろくに飲めなかったでしょう? これからフィフィー様との親睦を兼ねてテラスで仕切り直すのですけれど、リズロッテ様もご一緒にいかがですか?!」
あろうことか皇太子を自ら誘った事で、リズロッテに向けられた冷ややかな失笑と軽蔑にも似た敵意は凄まじかった。
落ち込んでいるのではと、エミリオが気遣ってくれているのがわかる。気持ちが沈んでお茶の気分どころではないけれど、その気遣いを無碍に断るのも気が引けた。
「ええ……そうね、ご一緒させてもらうわ」
後宮──白亜の美しいこの宮殿は、皇城の本宮とひと続きになっていて、正面から見て本宮のちょうど真後ろにあるため『後宮』または『後ろ宮』と呼ばれている。
外廊下に沿ってコの字で囲まれた中庭は、季節の花々が職人の手によって植え込まれ、一年を通じて華やいだ
薫り立つ薔薇庭園の中央に据えられた噴水の水しぶきが七色に輝き、見る者の心を
「素敵……! こんなところでお茶が飲めるなんて。城門をくぐった時から驚きの連続でしたが、さすがは大帝国の宮殿です!」
「あら、フィフィー様。皇城は初めて? 城門からここまでだと、見えているところはほんの僅かですわ。これからもっと大きな驚きの数々が待っていますわよ!」
「間違いありませんね。どんな驚きが隠されているのか楽しみです!」
「
互いに視線を合わせたリズロッテとエミリオが「ふふ」と微笑った。
後宮専属の給仕に運ばせたティーセットに手を伸ばし、三人揃ってティーカップを唇に運ぶ。このティーカップひとつを取っても、金細工や繊細な絵付けから驚くほどに高価なものだとわかる。
「それにしても! 相も変わらずジルベルト様は無表情一徹でしたわね……」
琥珀色のお茶をすすりながら、エミリオは遠い目をしている。その口ぶりには故意の皮肉が込められていた。
「皇太子殿下は美しい方ですけれど、いつもあんな感じ……なのですか? ロザンヌ王女のお菓子の一件には驚いてしまって」
「フィフィー様はご存知ないかも知れませんが。後宮の淑女に関わらず、夜会や舞踏会でも近寄ろうとする女性をことごとく跳ね除けるのがジルベルト様です。大公夫人が心配なさって、今日の後宮を作り上げたという噂があるくらい。ですからっ……リズロッテ様も気になさる事はありませんわ!」
「エミリオ様、有り難うございます。変な気遣いをさせてしまうわね。わたくしはこの通り二年近くも後宮にいますもの。殿下に突き放されるのには慣れています。ぜんぜん平気よ?」
身を斬られたような落胆と痛みを隠し、リズロッテは軋む心を自ら慰めるように言い聞かせる──殿下は噂通りの『女嫌い』。誘いを断られるのは当然の事──。
「それが……! お二人に聞いていただきたいのですけれどっ。わたくしの学友だった者が獅子宮殿に出仕していたのですが、今日から後宮に異動になって。今朝、挨拶に来た時にこっそり教えてくれたのですけど、」
エミリオが周囲を警戒するように頭を低くする。いわゆるヒソヒソ話の姿勢になって頬を寄せた二人に囁いた。
「ジルベルト様、少し前に新参の『お茶役』を迎えられたそうなのです。それも充てがわれた者ではなく、殿下ご自身が選ばれたのですって」
「ごっ……ご自身が選んだって、殿下は『女嫌い』のはずでは?!」
「それが信じ難いのですけれど!
女性には心を開かぬと言われるあの皇太子殿下が、なんと『お茶役』を特別に目をかけ、傍目が見ていて恥じらうほど
エミリオの面輪に血が昇っている。
傍目が見て恥じらうほどの『寵愛』や『溺愛』なんて、女嫌いだと言われるほど無関心で無愛想な皇太子からは想像もできぬ言葉だ。
そして──リズロッテは『皇太子の寵愛』という文言に青ざめる。
『お茶役』とは、いわば夜伽だ。
その夜伽に寵愛を与えるという行為は——まだ清らかな乙女のリズロッテにだって想像に難くない。
「まだ続きがあるのですっ。あのジルベルト様が特別に目をかけて寵愛なさると言えば、それなりの身分を持つ者かと思っていたら……」
「思っていたら?!」
フィフィーは興味津々だと言わんばかりに顔を寄せるが、リズロッテはもう半分うわの空だ。
「なんと……そのお茶役、辺境居酒屋の下女出身ですって。
後宮のわたくしたちを
リズロッテの中で何かが、ふつり、と切れる音がした。
この二年という歳月。
皇太子にどれほど冷たくあしらわれても、目を逸らされてもリズロッテが後宮を出る事なく耐えて来られたのは、皇太子が女嫌いだと信じていたからだ。
女嫌いなら冷たく扱われるのは仕方がない。
だけどいつかは、女嫌いの皇太子だって正妻を迎える日が来る。
それが自分であればと淡い夢に浸り……わずかばかりの希望をただひたすらに願いながら、同じ
「……下女、ですって……?」
ふつふつと煮える胸の内側がかあっと熱くなる。
皇太子は下女を夜伽に迎え、毎夜のごとく寵愛を……優しい腕で抱き、愛情を、美しい微笑みを、その女に与えているのだろうか。
リズロッテがどれほど乞い願っても、夢とまぼろしの中で想像するしかなかった皇太子の秀麗な笑顔を……卑しい下女があの凛々しい腕のなかで眺め、甘く切ない愛の言葉を注がれていると言うのか。
「わたくしたちは、その下女以下だということ……?!」
熱く煮えたぎる胸の内を抑えることができない。
突然に火の粉を散らしはじめたリズロッテの気迫に気付き、エミリオとフィフィーは驚いて怯み、こくりと息を呑む。
──皇太子殿下に取り入った卑しい女。
その恐ろしく
一度見てみたいものね……!