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一時の気まぐれなのですか?(1)

「──くしゅん!」


 南庭のガゼボに吹く風は穏やかだが、夕刻の冷気をはらむ。

 膝の上で丸くなって眠る薄灰色の仔猫が驚いて、片目だけをちらりと開けた。


「マリア様? 風邪をひいてはいけませんわ。そろそろお部屋に戻りますか?」

「有難うございます、ラムダさん。でもまだ平気です。鼻が少しくすぐったかっただけですから」


 口元に笑みを滲ませ、ラムダが立ち上がる。


「わたくしは本宮に呼ばれておりますので、そろそろ行かなくては」

「ええ。どうぞ行ってください。私とジルは、もう少しここに居ても良いでしょうか?」


 円卓の上には若葉の緑色を閉じ込めたようなお茶が注がれたティーカップと、ラムダが持って来てくれた、美しい風景画の画集が広げられた状態で置かれている。


「構いませんが、お部屋まで一人で平気ですか?」 

「ええ、もう何度も行き来していますもの。ジルもいてくれますし、大丈夫です」


 みゃぁ!

 任せておけ、とでも言いたげに、仔猫がタイミングよくひと鳴きした。


 マリアが獅子宮殿に来てから、ひと月近くが経つ。

 自室に戻る道はわかっている。このガゼボでジルベルトと時々昼食を摂ったり、こうしてラムダとお茶の時間を楽しんだりもした。

 今となってはマリアに面と向かって罵声を浴びせたり、あからさまな敵意を投げてくるメイドもいない(ラムダがいつもそばにいて、目を光らせてくれているから)。


「ではマリア様。夕食の支度ができましたらお部屋に参ります。日が落ちるまでにはお戻りくださいね」


 呑気な小鳥たちの囀り。

 足を早める夕風が木々の葉をさらさらと揺らす。獅子宮殿のガゼボはいつ来ても人の気配がなく、木々の緑の中にひっそりと佇んでいる。


 ラムダの背中を笑顔で見送ると、マリアは卓上に再び視線を落とした。

 両手でやっと抱えられるほどに大きな画集。

 開いたページには、桃色の花々に囲まれた庭園で、白い大きなリボンのついた帽子を被る女性に手を差し伸べる男性が描かれている。

 絵の中のその男性が、ジルベルトに少し似ているような気がして。


「ジルベルト……」


 その名を口にするだけで、胸の奥がきゅ、と締め付けられるように痛くなる。


『身勝手な男の我儘に付き合わせてしまって、すまない。』


 意識があるなかで、ジルベルトと初めて添い寝をしたあの日から。ジルベルトは毎夜マリアを寝台まで運び、両腕で優しく抱きしめるようにして眠りに就く。


 頭の上の呼吸が静かな寝息に変わるのを感じ取ってから、マリアは目を閉じる。けれどジルベルトは本当に、マリアより先に寝入っているのだろうか。

 なかなか目を閉じようとしないマリアを気遣い、わざと眠ったをしているのではないかと、とても心配になってしまう。


『心臓が壊れそうだ』と言ったマリアに、微笑って『慣れてもらわねば困る』と言ったジルベルト。


 いくら慣れろと言われても、薄い夜着越しにふれる体躯のたくましさや、ジルベルトの体温も、規則正しい鼓動も、呼吸の一つさえも……マリアの後頭部を包む大きな手のひらにだって、いつまでも慣れる事はない。


 ──私の鶏がらみたいに貧相な身体つきも、ジルベルトに伝わっているかも知れないわね?


 いや、当然に伝わっているだろう。


 ──だとしたら、恥ずかしい……!

 一般的に男性は肉付きのいい豊満な女性を好むと、ラムダさんは言っていた。ジルベルトだって、きっと……。


 視線を下に向けて、胸の膨らみの辺りをまじまじと眺めてみる。コルセットが持ち上げてくれているおかげで、どうにか形を保っている程度だ。


「はぁ…………」


 ラムダの言いつけ通りたくさん食べさせてもらっているけれど、急激に身体つきが変わるはずもなく。

 そういう心配ごとも相まって、マリアの毎夜の眠りは穏やかではない。


 ──が恥ずかしいだなんて、きっと私の考え過ぎよ? 添い寝を所望されるのは悪夢を見ないようにするため。私の身体つきがどんなだって、ジルベルトには関係ないはずだもの……!


 恥ずかしさをどうにか胸の奥に押しやろうと、ティーカップを口元に運んだ。グリーンのお茶に浮かんだミントの葉の爽やな香りが鼻腔に溶けていく。


 仔猫が膝の上で気持ちよさそうに丸くなっている。そよ吹く夕風と愛らしい小鳥の囀りにいざなわれ、

「……ぁふぁ」

 小さなあくびが出てしまい、指先で唇を抑えた。

 寝不足が続いているので、夕刻にもなると眠くなってしまうのだ。


「──全く、悠長なものだ。身を慎みなさい」


 声がした方を慌てて見遣れば、立派な騎士服に身を包んだ黒髪の美丈夫がこちらに向かってくるのが見える。


「フェルナンド子爵様……っ?!」


 驚いて立ち上がったので、ガタン! はしたなく椅子を鳴らしてしまった。

 仔猫が慌てて膝から走り降り、ふわりと着地する。ぶるっと身体をふるわせてから、碧いでマリアが見る方向を凝視した。


 ジルベルトよりも年嵩に見えるフェルナンド子爵。それでも二十代後半前後だろう。

 相変わらずの精悍さで、髪の後ろ半分を後頭部に撫でつけている。顔つきに少しの柔らかさも見せず、唇を一文字に引き結ぶ。


「お、お久しぶりでございます!」


 ふかぶかと頭を下げるマリアを、フェルナンドはジロリと一瞥する。顔をあげたマリアの目に映る翡翠の瞳は冷たい光を宿し、マリアという素性知らずの娘を少しも認めていないことがわかる。


「座りなさい、あなたに話がある」

「は、………はい」


 マリアが皇城にやってきたとき、フェルナンド子爵が部屋に案内してくれた。ジルベルトの従者だという彼と言葉を交わすのはあの時以来で、獅子宮殿で見かけてもちらと目が合うくらい。なのに、急にどうしたのだろう──。


 ず、と椅子を引き、子爵はマリアの隣に腰を下ろす。あからさまな威圧を込め、翡翠の瞳がすがめられた。



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