* * *
ジルベルトの自室へと向かうマリアはふと立ち止まり、広々とした回廊の窓辺から空を見上げた。
胸元に抱えた大きな画集を落とさぬように気遣う。
──今夜のラムダさんはそわそわしていて、なんだかとても変だった。
繊細なモールディング細工が施された格子状の窓は天井まで届くほどに大きいが、この位置から月の姿は見えない。夜の帷はすっかりと降り、雲のない二十二時の夜空には満点の星が煌めいている。
皇城中、いや、帝都中の人々が心待ちにしている『星祭り』が近づくにつれて夜空は澄み渡り、星々は誇るように輝きを増していた。
『マリア様。今宵はきっと良いことがありますよ!』
湯浴みを済ませて夜着を身に付けるマリアを手伝いながら、ラムダは終始笑顔を絶やさなかった。マリアの長い髪を梳かす時も、なぜだかいつもよりも念入りに髪に香油を馴染ませていたような気がする。
マリア以外の他者を寄せ付けず、凛とした佇まいを崩さぬラムダのあんなに緩んだ
──良い事があるって、ラムダさんはどうしてわかるのかしら。
もしかして、流れ星が降るとか……?
星空を目を凝らして見てみるけれど、特に変わった様子は見受けられない。
マリアは再び足を進めた。
このひと月のあいだ毎夜通い詰めているのに、いつまでも慣れないのはジルベルトの居室の廊下に立つ二人の衛兵の視線。
片手に鋭い槍を持った彼らは飽きもせずにぎろりと目だけを動かす。両手がふさがっているので、マリアは足首まである夜着の裾を踏みつけないよう気遣いながら、逃げるように彼らの脇を通り抜けた。
お茶役はその名のとおり就寝前のお茶を運ぶものだが、ジルベルトが不要だと言うので身軽なものだ。
今夜はラムダに借りているお気に入りの画集を持ってきた。
ジルベルトに似た男性が登場する絵や、美しい絵画の数々をふたりで眺めたかった。
大好きなマレが描く世界を、ジルベルトも気に入ってくれるだろうか。
興味深く画集を眺める真摯なあの碧い瞳を想像すれば、自然と柔らかな笑みが
廊下を一歩進むたびに胸の鼓動が早くなる。
衛兵の前を通る緊張よりも、ジルベルトと毎夜過ごす時間の方がよほどマリアの胸を疼かせる。
「……失礼いたします、マリアでございます」
両開きの扉を叩けば、少しの間があって。
ジルベルトが力強い腕で重い扉の片方を開けてくれる——いつものように、穏やかな優しさを滲ませた碧い瞳がマリアを見下ろす。今夜も──そのはずだったのに。
ガチャリと音を立て、ゆっくりと開かれた扉の向こう側に立つジルベルトはマリアを見るなり、す、と顔を背けた。
──ぇ……?
一瞬、それが何を意味するのか理解ができなかった。
「あの……」
顔を背けたまま、ジルベルトはマリアを見ようともしない。そうかと思えば右手を持ち上げて困ったように前髪を掻き上げ、そのまま静止する。
いつもと変わらぬラフな部屋着で、髪だっていつもと変わらず濡れたままなのに……綺麗な碧い瞳に滲ませる彼の感情だけが、明らかに違っていた。
「……ジルベルト?」
身体の具合でも悪いのだろうか。
だがいつだって部屋を訪ねたマリアを優しく気遣い、熱があっても弱音など吐かず平気だと言い張る人だ。
「ああ、すまない。中に、入るか……?」
──入るかって、どう言う意味でしょう?
入らない、なんて選択肢は、これまで一度も無かった。
「どこか、具合でも悪いのですか?」
「いいや、そうではないが」
ちら、と目が合えば、やはりすぐに逸らせてしまう。しまいには不機嫌そうにうつむいて、
「……入って」
ひどく気まずそうにマリアを招き入れようとする。ジルベルトがこんなふうでは、マリアとて易々と従うわけにはいかなかった。
「あの……もしも、私がお部屋に入ることをお望みでないのなら……今夜は、帰ります」
そうは言ったものの。
マリアを
心のどこかで期待をしていた。これも何かのサプライズで……いつものように「冗談だよ」って、笑ってくれる──。
だがそんなマリアの淡い期待はすぐに打ち砕かれることになる。
「……そうだな。折角来てくれたところをすまないが、今夜は一人で眠りたい」
マリアの胸の内側に痛々しい衝撃が走る。
相変わらず目を合わせてもらえないし、それに見た事もないほど不機嫌そうだ——まるでマリアの来訪を迷惑がっているかのように。
──どうして……っ
短い間にマリアは想いを巡らせる。昨夜から今朝方にかけて、添い寝中に何かまた粗相でもしでかしたのだろうか。
記憶は全く無いけれど、寝相が悪くてジルベルトを蹴飛ばしてしまったとか、変な寝言を叫んで引かれたとか、知らぬ間に
頭の中がぐるぐる回っている。
それでも今は少しでも早く機嫌の悪いジルベルトを解放し、マリアは自室へと戻った方が良さそうだった。
「わかり、ました。では……おやすみなさいませ。失礼、いたします」
もう怖くてジルベルトの顔を見上げることができない。
ゆっくりと丁寧にお辞儀をして半身を低くしたまま、ジルベルトが扉を閉めるのを待った。
「……おやすみ」
低い声が小さく告げる言葉と、ガタンと重い扉が閉まる音を聞いたあとも──マリアはしばらくのあいだ、頭を上げることが出来なかった。
冷たくなった指先が、震えている。
何だかひどく悲しくなって、画集を抱える両手に、ぐ、と力を込めた。