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同じ星空を見上げて


 *┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈*



 失意のまま自室に戻ったマリアを待ち構えていたのは、銀色の皮毛が艶やかに輝く仔猫のジルだ。

 ラムダが言うには、どうやらジルはマンチカンという種類の猫らしい。


「みゃー!」


 ジルは窓辺に置かれた猫用のベッドで眠っていたが、部屋を出たばかりのマリアがすぐに戻って来たので何事かと驚いた様子を見せた。

 だが大きく伸びをしてから短い足でちょこちょこと駆け寄り、マリアの足元に身体を擦り寄せた。


「ジル……っ」


 抱えていた本をそっと床に置き、猫を抱き上げて小さなピンク色の鼻先に自分のそれをくっつける。まだ子供の猫はマリアに精一杯の愛情を示そうとするように、マリアの鼻先をぺろぺろと舐めはじめた。


「ふふっ、くすぐったいわ、ジル……。でも有難う。あなたが出迎えてくれたから、気持ちが少し落ち着いたわ」


 それは、マリアが自分を励ますための言葉だった。

 ほんとうは心の中が空っぽで、まだ何が起こったのかきちんと飲み込めてはいないのだ。


「みゃー」

「ごめんね、ジル……。心配してくれるのは嬉しいのだけど……少しのあいだ、一人にしてくれる?」


 仔猫を床に下ろせば、両腕がだらりと下がる。マリアの腕はもう、重力に逆らう力さえも失っていた。


 明かりを灯さない部屋は全体に深いあおみを帯びていて、月明かりが差し込む窓辺だけがぼうっと白く明るい。

 マリアは鉛のようになった足を引きずりながら、とぼとぼと窓辺に向かった。


 両開きの窓を開ければ、心地よい夜風が入ってくる。ストロベリーブロンドの長い髪がふわりと風になびいた。

 満点の星空は、先ほど回廊で見たのと同じように煌めきながらマリアを見下ろしている。

 檸檬の色形に似た月が、周囲の小さな星たちを見守る母親のように優しい光を放っていた。


 ──ジルベルト、どうして……?


 回廊を歩いている時から、同じ言葉が頭の中を回り続けている。

 マリアから冷たく目を背けるジルベルトは、昨日までとはまるで別人のようだった。


 一生懸命に昨夜のことを思い出してみるけれど、特におかしな事はなかった。それどころか昨夜のジルベルトは機嫌が良く饒舌で、ウイットに富んだ冗談を何度も言ってはマリアを笑わせて、満足そうに微笑んでいたのだ。


 ──私がいつも、ジルベルトの目覚めも知らずに眠ったままだから? だらしのない私に、いい加減呆れてしまったのかしら……。


 ジルベルトが眠るまで起きているマリアは、ジルベルトが寝台を抜け出す早朝には熟睡してしまう。そんなマリアを起こさぬよう気遣ってくれているのか、マリアが目を覚ました時はいつもジルベルトが部屋を出たあとなのだ。


 叱られないのを良いことに、ジルベルトの優しさに甘えすぎていたのかも知れない──そんな後悔が胸をしめ付けるように押し寄せるけれど、今更どうすることもできない。


「ごめん、なさい……」


 胸の前で両手を組んで、祈るように星空を見上げた。

 もう秀麗なあの優しい笑顔を見ることは無いのだろうか。

 綺麗な碧い瞳にマリアを映すことも、冗談を言って微笑うことも、良く眠れると呟いて、逞しい腕でマリアをそっと抱きしめることも……。


 不意に目頭が熱くなり、こぼれ落ちた涙が頬を伝った。

 星々の煌めきが滲んで、幾重にも重なって見える。


 幸せな時間は長くは続かない。そんな事はわかっていた。

 これまで何度も自分に言い聞かせ、しっかりと覚悟もしていたはずなのに……それなのに。


 ──どうしてこんなに悲しいの。心が、痛いの…… !


 ジルベルトの事を思うだけで胸が疼くのは、ジルベルトに『憧れて』いるからではない。

 ラムダに言われなくても、自分の気持ちはもうずっと前からわかっていた。許されざる想いに、だた必死で蓋をしてきただけ。


「ジルベルト……あなたが好きです…… !」


 本当の気持ちを口に出せば、ますます悲しみが広がって。熱を持った目頭から涙がとめどなく溢れ出てぽろぽろと頬を伝い落ちた。


『あなたへの寵愛はジルベルト様の一時のだということを忘れるな。』


 昼間のガゼボでフェルナンド子爵が言い放った言葉が耳の奥を掠めていく。


 ──寵、愛。


 もしかしたら、昨日まではそこにあったのかも知れない。だけど気付かなかった……気付こうともしなかった。

 それはまるで空気のように、マリアを優しく包んでくれていたから。


 ──だけど、今はもう……。


 子爵が言った事はやはり正しかった。諭された通り、いつ失ってもおかしくはないジルベルトの『気まぐれ』だったのだ。


 気まぐれが過ぎ去り、本当に失ってしまうのがこれほどに辛いなんて思ってもいなかった。そして一度失ってしまったものは、もう二度と戻らぬだろう。


「あぁ……」


 込み上げてくる嗚咽を堪えることもなく。

 マリアはひとりきりで泣きながら、窓辺の床の上に崩れ落ちるのだった。





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