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憂う心が向かう先(1)


 あの星空の日から、五日が経った。

 今夜も星が瞬く美しい夜だ。


 寝支度を整えたマリアは寝台に腰掛けて、膝の上の仔猫をあやしている。皇城に来てから一か月以上経つが、この寝台で眠るのはまだ五回目だ。

 眠れぬ夜をどうにかやり過ごし、昼間は獅子宮殿の庭を散歩したり、ガゼボでぼうっと画集を眺めながら辛く長い五日間を過ごした。ふと気付けば眠っていて、夢と現実の境がひどく曖昧な日々だった。


 寝不足で気だるい身体を包んでくれるのは、居酒屋の屋根裏にあった鉄格子の寝台とは比べようもないほど上質でふかふかの寝具。

 だがそれも、たかが居候同然の自分が使うのは相応しくないとマリアは思うのだった。



 五日前の──早朝。

 仔猫に食事をやるために部屋を訪れたラムダは、窓辺にゆらりと幽霊のようにたたずむマリアの姿を見てぎょっと目を見開いた。

 いつもならマリアはジルベルトの寝室で眠っている時間だ。


 ストロベリーブロンドの前髪から覗く目元は隠しようもないほど赤く腫れていて、マリアが泣いた事は明らかだった。

 事の成り行きを聞いたラムダは、


ジルベルト様のご気分がすぐれなかっただけでは? 今夜はきっと、いつも通りのジルベルト様に戻られます!』


 マリアも一度くらいは期待したことを、自信たっぷりに言う。

 その言葉を信じたかったけれど……期待は霧散し、のジルベルトに戻ることは無かった。

 ジルベルトの居室をマリアが再び訪ねる勇気を奮い立たさなくても、その日の昼間にはジルベルトからの通達がマリアの元へと届いた——しばらく一人で眠る、と。



「しばらく、って! あれから五日も経つと言うのに、ジルベルト様はいつまで焦らされるおつもりかしら?!」


 マリアの寝室の洋燈を順に消して回るラムダは、マリアがたじたじとなってしまうほどに苛立ちを募らせている。

 だがそれでも、ジルベルトのマリアへの想いを知るラムダは期待を捨てていなかった。


 ──全く、ジルベルト殿下は何を考えていらっしゃるの。マリア様に愛を伝えるどころか、遠ざけてしまわれるなんて。

 だけどあの真面目で情に厚い殿下が、意味もなくマリア様を突き放したり、簡単に心変わりをするとは思えない……!


 ジルベルトに直談判することも頭をよぎったが、傷心のマリアへの配慮もあり、ラムダはひとまず二人の様子を見守ることにしたのだ。


「ラムダさん、有難うございます。でもわかっているのです……ジルベルトは、きっともう……」


 なぜ突然に嫌われたのかなんて、悲しい理由を考えるのはもうやめてしまった。思案を巡らせるような深い事情はなく、答えはもっと簡単な気がするのだ。


 ──ジルベルトは帝国の皇子殿下。

 皇城には皇族の婚約者候補を集めた後宮があるとも聞いている。

 麗しいジルベルトを慕う人はきっと大勢いるだろうし、ただ添い寝をするだけではない『お夜伽役』だっているはずだわ。


 正式な『お夜伽役』。

 ジルベルトが見知らぬ女性を抱きしめて眠る様子を想像すれば、また違った心の痛みが襲ってくる。

 その痛みを打ち消すことができるのならば、いっそのことジルベルトとの記憶を全て失ってしまいたいとさえ思える。


 突き放されたのが、ジルベルトの気まぐれではなく——。

 どんな些細な事でも、他の理由があった方がまだ良かった。ちゃんとしまいたかった。


 マリアの粗相のせいで嫌われたのなら、粗忽者の自分を責めるだけで済んだのに……。


 もやもやした気持ちをどこにぶつければ良いのかわからぬまま、マリアの心は見えない力一杯に心臓をぎゅっと掴まるれるように苦しいのだった。


「ラムダさんに、お伝えしたいことがあります」


 寝台に腰掛けたまま、仔猫を床に下ろしたマリアは真剣な眼差しをラムダに向ける。いつでも花のようにふわりと柔らかなアメジストの瞳。だが今は、一縷の緩みさえも見当たらない。


 ラムダは怯んだ──何だかとても嫌な予感がしたのだ。




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