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この苦しさは何なのでしょうか?



「お前さんたち、いったい何があったんだい!」

「子供が木から落ちたんだってよ」

「おい……大丈夫か?!」

 ラムダの傍で泣きじゃくる子供を大人たちが立ち上がらせた。


 ──ラムダ……!!


 駆け寄ったマリアは、地面に横たわって動かぬ身体のそばに両膝をつく。恐る恐るその肩に触れたとき、不安がぞわりと背中を撫でた。


「起きて? ねぇ、ラムダ……!」


 ──もしもラムダが、このまま動かなかったら……っ


 すらりとした華奢な身体を両手で揺さぶる。黒い煙のような不安がマリアの胸を這い、みるみる広がった。何度も名前を呼ぶが、ラムダは石のように動かない。


 ──誰か……助けて……!!


 怖くなって青ざめ、マリアがぎゅっと目を閉じた……その時だった。


「マリア」


 良く知る声が、艶のある声が……頭の上から降ってくる。

 が、衣擦れの音とともにマリアと接するほどの近さで膝をついた。

 同時に外套ローブの裾から逞しい腕が伸びて、マリアの肩を力強く抱き寄せる。


 ── ぇ…………?!


 甘美な麝香じゃこうの香りがふわりと揺蕩たゆたう。

 目蓋を開けておそるおそる見上げれば、マリアが知る、凛々しい眼差しがすぐ目の前にあった。

 幻ではないかと何度もまばたきを繰り返すマリアを、碧い瞳が優しく見下ろしている。


「ラムダは大丈夫だ。心配しなくていい」


 肩を抱く大きな手のひらが、マリアを励ますようにぐっと力を込めた。だが無情にも、力強い手のひらはマリアの肩からすぐに離れていってしまう。

 それは……ほんの僅かな時間だった。肩に感じた懐かしいあたたかさが離れてしまうのが、ひどく名残惜しかった。


 騒めく周囲の喧騒のなか、マリアの肩を離れた腕はラムダの身体を抱え上げ、ひざまずいたその膝の上に横たわらせた。


 長く繊細な指先が、幾度となくラムダの頬を打つ。すると、


「……んんっ、嫌だわ……わたくしったら、昼寝でもしていたのかしら」


 たっぷりと長い睫毛の奥の、濃紫の瞳がうっすらと開いた。

 ラムダが見上げた先に、自分を抱えて見下ろす『護衛の男』の秀麗な面輪を認めたとき。


「ジルベルト様……!?」


 驚きと焦りとで慌てて半身を起こせば、「痛っ」小さな叫びとともに右足を見やり、表情かおを歪ませる。ラムダは無理にでも立ちあがろうとするが、男の腕がそれを制止した。


「足首を痛めたようだが、かすり傷の他に怪我は無いな?」

「も……、申し訳ございません。とんだ不敬を…… !」 

「俺の事は気にするな。良くやったな! 子供は助かった。君は人助けをしたんだ」


 鷹揚に言葉をかける『護衛の男』——ジルベルトは。

 片腕を上げて外套ローブのフードを下ろす。真昼の太陽の下で光を孕んだ薄灰色の髪が、爽やかな風にさらりと靡いた。


 碧色アイスブルーの瞳が、海のように堂々と、マリアに微笑みかける。


「マリアは慌てただろう。ラムダに大きな怪我はないが、手当てをするまでは歩かせない方がいい。馬車まで運ぶから、はぐれないように付いて来られるか?」


 息を吸うのも忘れそうになるほど、ふたりを食い入るように眺めていたマリアは、思い出したようにやっと小さく息を吸い込み、こくりとうなづいた。


「おーおー。子供も姉ちゃんも無事だったみたいだぜ?」

「そうか、良かったなぁ」「まったく、とんだ人騒がせだ……」


 群がっていた人々が方々《ほうぼう》に散ってゆく。礼も言わずに逃げ去ったのか、ラムダが下敷きになって救った子供の姿は見当たらなかった。


「心配させてごめんなさい、マリア……!」


 穏やかに頬を撫でる風に乗って、楽隊が奏でる乾いた音が耳に届いた。

 自分の目に映るものがまだ信じられず、マリアはアメジストの瞳を大きく見開いたままだ。


「ジルベルト様、あなたの馬は?!」

「君たちが昼食を摂っている間に、そこのうまやに預けた。ラムダ、君の『祭り』はここまでだ。残念だな?」


「今朝の通り、帝都にマリア様を送り届けたら、わたくしはすぐに去ると思っておられたでしょう? 馬を鳴かせてまで、『早く帰れ』と訴えてらっしゃいましたものね……!」


 ラムダを横抱きのまま抱え直し、ジルベルトはすっと立ち上がる。

 そしてマリアに目配せをしてから歩き出した——これから帝都の入り口付近に待たせている馬車に向かうようだった。


「気付いていたのなら、何故すぐに従わなかったんだ?」

「ジルベルト様だって。ずっとあんなにおられたじゃないですか!」


「それはッ……」

「マリア様と早くふたりきりになりたかったのでしょうけれど? マリア様は放っておかれたのです。ですから、罪深いジルベルト様に軽くお灸を据えて差し上げたのですわ!」


「いや、単に放置していたわけじゃない。これにはちゃんと事情があるんだ……」

「いったいどんな事情だか。それにわたくしだって、少しはマリア様とのお祭りを楽しみたかったですし」


「その所為せいで怪我をしてしまったろう? 君の父上に、俺はなんと言い訳をしようか」

「父がどう思おうと。これは……名誉の負傷です!」


 マリアはジルベルトの濃紺の外套ローブの背中の後ろを歩いた。

 周りの人よりも頭ひとつぶんは背高い、大きな背中だ。はぐれたくても、はぐれようが無い。


 この数日、夜も眠れぬほどに恋焦がれたジルベルトが、すぐ目の前にいる。

 目を逸らさずにマリアを見つめて、話しかけてくれた。マリアを安心させようと、肩を抱いてくれた。


 そのジルベルトは今。

 ラムダを腕に抱き、二人は親しげに会話を交わしている。


 勿論、ラムダが無事だったという安堵が一番大きい。

 だが──心が苦しかった。


 胸の奥が、重いものに押し潰されそうになる。

 マリアは自分の気持ちに収まりがつかぬまま、ただ震えるだけで、言葉が何も出てこないのだった。





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