*┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈*
後宮の庭にあるテラスで、リズロッテは深くため息を吐いた。
アルフォンス公爵夫人による午前の淑女作法指導時間が終わり、皇宮書庫室での読書時間まではあと一時間もある。
先ほど軽く昼食を済ませたけれど、それほど食欲があるわけでもなく、気に入りのこの場所で紅茶と茶菓子をお供に時間を潰していた。
呑気な令嬢たちが回廊に立ち、若い侍従を相手に会話を弾ませている。
真冬の一月であっても南国に位置する帝都の気温はさほど下がることはなく、日中はひだまりのような暖かさだ。
「……気持ちいい」
爽やかな風が頬を掠めていく。
五感をくすぐられる、とでも言うのだろうか。こうして目を閉じると、木々の葉がすれあう音が心地よく耳にまで届く。
後宮は、色々な意味でとても居心地が良かった。
アルフォンス公爵夫人の淑女教育は言うまでもなく、後宮の設備をはじめ与えられた自室の素晴らしさや、帝国一を誇る美食の数々……。
それに、自国のそれをはるかに超える壮大な規模の皇宮書庫室はリズロッテの気に入りだ。
だが、デビュタントを済ませてすぐこの後宮入りをしたリズロッテのタイムリミットは、もうすぐそこまで来ていた。
丸二年を迎える今年の春までに、
「はぁぁ……もう、どうすればいいの」
ジルベルト皇太子殿下は、確かにとても素敵だと思う。
初めて彼を見た時はあの冷徹な碧い眼差しと秀麗な容姿に心を射抜かれてしまったのも確かだ。
後宮に来てからこの二年、夜会や社交の場で見かけては、あの『冷酷皇太子』とのロマンスに想いを馳せたことは数知れず。
けれど、それは恋心とは少し違っている。
自分のことだから、リズロッテにはそれがわかる。
皇太子を想う時、決まって頭に浮かぶのは悲痛な面持ちでリズロッテに縋る両親の顔。
──ロッテ。そなただけが頼りなのだ。
皇太子との婚約を勝ち取り、祖国への支援を取り付ける──それが、リズロッテに課せられた
残された時間をどう動くべきか。
たとえ血を吐いてでも、皇太子の婚約者の立場を勝ち取るためにはどうすれば良いのか……。
昼夜を問わず心を悩ませているそんな矢先──。
リズロッテのみならず、後宮をも揺るがすとんでもない『問題』が立ち上がった。
『女嫌い』で名を馳せるあの冷徹な皇太子が、こともあろうに下女出身の女を寵愛しはじめたと言うのだ。
もちろん、アルフォンス大公夫人にも噂の真偽を問い正した。すると、あの遺漏のない公爵夫人でさえも打つ手立てがなく、その問題には心を痛めていらっしゃると言うではないか。
「冗談じゃないわ……!」
少々乱暴に置いたティーカップが、ガチャリと音を立てる。
後宮入りを果たした直後の二年前であれば、こんなに憤りを感じなかったかもしれない。
皇族の帝王学の一環として『お茶役』の存在があり、そして皇位を継ぐ者の正妃が懐妊しなかった場合も、正式に選ばれた『お茶役』であれば世継ぎをもうけるための側室となりうることは皆が知っている。
しかし──相手は下女だ。
側室にも、妾にもなれぬ下賎な者だ。
そんな女に皇太子を取られていたら、リズロッテに残された僅かな時間は
「いったい、どうすれば……っ」
リズロッテには、もう時間がない。
整った眉根を寄せて、ぎゅ、と目を閉じたとき。
「リズロッテさまぁ〜〜っ!!」
後宮の外廊下から飛び出す勢いで、友人のエミリオ公爵令嬢とフィフィー侯爵令嬢だ。
「大変なのですっっ」
息を切らした二人はリズロッテの隣に揃って腰を下ろす。
「お二人とも、どうなさったの?! ほら、深呼吸を……とにかく落ち着いて……?」
「これが落ち着いていられますか。先ほど星祭りから戻った侍従が……っ、見かけたのですって……!」
ジルベルトに誘いを冷たくあしらわれてから、『星祭り』のことは胸の内からすっかり追い出していた。あの時の屈辱と失望なんて、思い出したくもなければ考えたくもない。
「そういえば。今日はお祭りの日でしたわね。見かけたって、何を?」
「お忍びの……ジっ、ジルベルト殿下と、見たこともない若い女が……
ふうふう言いながら、エミリオがまくし立てる。
そのあまりに
「ごめんなさい……ちょっと微笑ってしまいましたわ! 幾らなんでも、それはないでしょう。その侍従が見間違えたのよ」
「それが、そうではないのです。二人はそのまま、
「……ぇ、なんですって?」
「皇室御用達の、ブラウン商会です。あそこは一般人が容易に足を踏み入れられる場所ではございませんもの。きっと殿下に、間違いありませんわ……」
リズロッテの背筋に冷たいものが流れた。
「では、その若い女というのは……」
「おそらく例の下女ですわっ」
王族・上位貴族令嬢たちはみな、気位は高いが自分たちの立場をしっかりと弁えている。だが切羽詰まったリズロッテに立場もへったくれもない。
他でもない、自国の存亡がかかっている。
会ってみたい、顔が見てみたい。
その下女がいったいどんな女で、どんな手を使ってあの無愛想極まりない皇太子を唆したのか。
知りたい、そして糾弾すべきだ──その女の目的が、なんなのかを。
「アルフォンス夫人はわたくしの事情をご存知で、それをご支持くださっているのだもの……きっと、お力になってくださるわ」
「りっ……リズロッテ様?!」
リズロッテのただならぬ気迫に、フィフィーはたじたじとなる。
「その下女と話がしてみたいわ。わたくし、アルフォンス公爵夫人にその下女との面会を願い出てみます……!」
*
後宮に続く本宮の回廊で、令嬢たちと話し込む侍従らを嗜めたあと。けたたましい声に思わず顔をしかめた。
「リズロッテさまぁ〜〜っ!!」
本宮に戻ろうとしたところを、皇太子の名を耳にしたフェルナンドは立ち止まり、回廊の柱の影に身を潜ませた。
──あれは……殿下に想いを寄せるリズロッテ王女。あとの二人は王女の友人か。
「……ぇ、なんですって?」
「皇室御用達の、ブラウン商会です。あそこは一般人が容易に足を踏み入れられる場所ではございませんもの。きっと殿下に、間違いありませんわ……」
──何という事だ……!
きちんと押印した政務書類を山と積み上げ、空っぽの政務机を残して皇太子は今朝から忽然と姿を消している。
──あの女を連れてブラウン商会になど、何をしに?!
ブラウン商会といえば、帝国随一を誇る衣装屋だ。その目的ははっきりとしている。
──殿下は……あの男は! いったい何を考えているのだ……!!
フェルナンドの整った面輪には、積み重なった怒りが濛々と滲み出ていた。
──帝国をまとめあげ、帝国のために生きねばならぬ男が、あのような下女にうつつを抜かしている場合ではないだろう!
「何らかの手を、打たねばならん」
ダン!!
フェルナンドの怒りの鉄拳が、回廊の壁を壊すかと思うほどに強く打ち付けられた。