冴木は寝不足と疲労を感じながらも、みれいが部屋を出て行ってからすぐに服を着替えて顔を洗い、スタッフルームを出た。朝が弱い冴木にとっては奇跡的に迅速な行動である。腕時計の針は六時十分を指していた。
冴木がスタッフルームの鍵を掛けて玄関ホールに向かうと、やはり玄関の鍵が開いていた。先ほどみれいが別荘に行くと飛び出していった際に開錠したためだろう。
扉を開けてみると途端に冷気が入り込む。玄関から先の道に向けて一人分の足跡が残っていた。みれいのもので間違いないだろう。確認を終えた冴木はしっかりと鍵を掛けた。
とりあえず何か飲み物を飲もうと玄関ホールから大食堂に向かうと、まだ早朝だというのにあんずが椅子に座っていて、ワインを飲んでいた。
「あんずさん、早いですね」冴木は時刻を知ってはいたが、わざと腕時計を見る素振りをする。「まだ六時過ぎなのに」
「おお、冴木さん、おはよう」
「朝からワインとは、贅沢ですね」
「ああ……昨夜はよく眠れなくてな。なんせ、旧友が二人も亡くなったんだ。それで考えたんだが……俺は黒騎士がやったんだと思っているよ」
「一日で随分と弱々しくなりましたね。ギルドマスターのあんずさんらしくもない。黒騎士なんて、幻想ですよ」
「冴木さんは、何か分かっているのかな?」
「まだ考えていません。僕、朝は苦手なんです」
「ああ……」あんずがグラスに残ったワインを揺らす。「だからそんなに生気のない顔つきをしているのかな?」
「それはいつもです」
あんずが疲れたように笑ってワイングラスを傾けた。
冴木は軽く頭を下げてから調理室へ行き、冷蔵庫を開ける。何とも悲しいことにオレンジジュースは見当たらなかった。仕方がないので手前にあった烏龍茶を取り出して適当なコップに注いだ。
すると、大食堂からあんずではなく、るねっとが現れた。
「おはようございます、冴木さん」
「あれ、るねっとさんも早起きなんですね」
「私はいつもこのぐらいの時間に起きますよ」
「へぇ、早起きは三文の徳だからかな」
「ふふっ、あの、これからとりあえず三人分の朝食を作りますが、良かったら手伝ってくれますか?」
「今度は猫の手も借りたい、ですか?」冴木は自分でつまらないジョークを言ったな、と自覚した。まだ頭が起きていない証拠だ。「僕で良ければ手伝いますよ」
るねっとが指示を出して、冴木は朝食作りを手伝った。この場にみれいがいなくて良かった、と安堵しながら卵をボウルに入れてかき混ぜる。しかしこれがみれいの手にかかると暗黒物質になるとは、全くもって謎である。
るねっとは実に手際良く作業を進め、冴木の三倍は朝食作りに貢献していた。出来上がった朝食をトレイに乗せ、冴木とるねっとはあんずがいる大食堂に戻る。
「あんずさん、お待たせしました」
「ああ、るねっとさんありがとう」あんずが片手を挙げて答える。「おぉ、これは美味そうだ」
あんずは朝食を一口頬張る度に料理を褒めて、るねっとをたちまちご機嫌にさせた。冴木はまだ頭が寝ているのか、何も考えずにぼんやりとしながら終始無言で食べ進めた。
三人が食事を終える頃にはテーブルにあったワインも底をつき(といっても、飲んでいたのはあんずだけだが)、あんずも流石に朝からこれ以上飲もうとは思わないようだった。それに気付いてか、るねっとが空いた食器とワイングラスをトレイに乗せる。
「あの、あんずさん。コーヒーメーカーがあったので、良かったらコーヒーを淹れましょうか?」
「ああ、頼むよ」
「冴木さんは?」
「僕は結構です」
「分かりました。私は飲むので、二杯作ってきますね」
「あ、なら僕が皿洗いをしましょう」
「ありがとうございます、冴木さん」
冴木が立ち上がると、何故か同時にあんずも立ち上がった。
「ちょっと、俺は部屋に入ってくる。折角るねっとさんがコーヒーを淹れてくれるんだからな、なるべく早く戻るよ」
「分かりました」るねっとが去りゆくあんずの背をじっとみながら言った。
こうしてあんずが自分の部屋へ。冴木とるねっとは調理室に行った。大食堂は無人になる。
「冴木さんって、みれいさんと付き合っているんですか?」
「え? どうしてそんな事を聞くんです?」
冴木が
「何だか二人の仲が良くて、良いなって思ったんです」
「まさか……僕と有栖川君はそんな関係じゃありませんよ。第一、僕は振り回されてばかりで正直迷惑している」
「でもその割には、普段と違った環境にいる自分を楽しんでいるのでは?」
「いやはや……」冴木は口元を斜めにする。「物は言いようだね。でも迷惑していることに変わりはない」
「迷惑しているのに、みれいさんの言うことを何でも聞いてあげるところが優しいと思います」
「それは優しさじゃないね」
「違いますか?」るねっとがシンクに食器を置いて首を傾げた。
「優しさとは、矛盾を許容するということだ。有栖川君の言うことを何でも聞くというのは、彼女にとってただ利便性が高いだけだよ」
「利便性、ですか……。それも、物は言いよう、ですね」
冴木は食器を軽くすすいで食洗機に入れ、冷蔵庫から新しい烏龍茶を取り出す。るねっとはコーヒーメーカーに豆をセットしていた。冴木は使い方を知らなかったが、別に知ろうという気もなかった。
手持無沙汰になったときに、るねっとの首元に光るものを見た。
「そのペンダント……昨日もつけていましたっけ?」
「あ、お風呂上りに一度……外していましたから」
「そうでしたか」
別にアクセサリーに興味があったわけでもない。何となく思いついたことを口にしただけだったので、冴木はそれ以上追及しなかった。
結局食器を洗うのもコーヒーを淹れるのもほとんど機械任せなので、すぐに大食堂に戻ることになった。人間のする動作がことごとく簡略化されていっていることをひしひしと痛感しながら、先ほどと同じように冴木とるねっとは大食堂に戻る。まだあんずの姿は見えなかった。
「あんずさんは、まだ戻っていないようですね」
「そうですね……他の人たちもまだ起きて来ませんね」
「起きているかも知れませんよ。部屋にいるだけで」
少しの間、沈黙。
まだ寝起きのせいで、どうでもいいことをつい口にしてしまう冴木にとって静かなことは心地良いことだったが、残念なことに早くもその静寂は破られる。
「おはようございます」
玄関側の扉に目を向けると、イーグルが眼鏡を持ち上げながら大食堂に入ってくるところだった。
「あ、イーグルさん。おはようございます」
「あれ、るねっとさんたち、もう朝食を済ましてしまいましたか?」
「あ、はい。イーグルさんも召し上がりますか?」
「そうですね。何だかお腹が空きました。食材はあるんです?」
「まだまだ沢山ありますよ」
イーグルとるねっとが調理室の方へと歩き出す。
冴木は、みれいに皆を外に出させないで欲しいと言われていたこともあり、まだ大食堂に来ないたくみんとシュダ、それに部屋にいったきり全然戻ってこないあんずを呼びに行くことにした。
「じゃあ、僕は皆を起こしてきます。朝食はイーグルさんとたくみんさん、シュダさんの分で合計三人分お願いします」
「あれ冴木さん」イーグルが辺りを見渡す。「有栖川さんの分はいいの? あ、もう食べて部屋に?」
「いえ……」冴木は本当のことを言うか迷った。「まぁ、大丈夫です。彼女夜行性で、まだ起きないから」
「そうですか」
イーグルは特に不審がることもなく頷くと、調理室へと消えていった。