「転生者、か……」
ハルキは月音の言葉を繰り返し、小さく首を傾げた。
「正直、よくわからないんだ。気がついたらこの世界にいて、と思ったらナマケモノの姿になって。
ナマケモノでいるうちに、人間だった頃の記憶が、なんだかぼやけていって。今も頭の中に靄がかかってるみたいなんだ」
「人間だったころのことが思い出せないってこと?」
月音は目を見開いた。春樹は神妙な面持ちでうなずく。
転生者である自分は、少なくとも以前の人生のことをきちんと覚えている――と思う。
この猫耳が生えて、ただの少女の姿になってしまっても、人間だったころの天野月音の姿のことをきちんと思い出せる。
――今のほうが可愛いから、いいけど。
そう自分に言い聞かせるように呟いた瞬間、耳の先がぴょこりと動いてしまったのを、月音は慌てて手で押さえた。
「でも、不思議なんだ。君を見ていると……なんていうか、懐かしい気持ちになる」
ハルキはじっと月音を見つめる。彼の茶色い瞳の奥に、一瞬だけ小さな光が揺れたような気がした。
「懐かしい……?」
きっと、元の世界の気配が月音からしているのだろう。月音はそう考えると納得したように、一人うんうんと頷く。
「そうだ、まだ私の名前を言って無かったよね。私は天野月音。で、こっちの胡散臭くて偉そうなのがエルスト」
月音とハルキの会話を静かに聞いていたエルストは、月音に呼ばれると笑顔を作り手を振って見せる。前髪で目が隠れているので、本当に笑っているのかわからずに、やっぱり胡散臭いとしか言えない。
「天野……月音……」
ハルキはその名前をゆっくりと口にして、まるで舌の上で味わうように反復した。その瞬間、彼の表情が一瞬固まる。
「……え?」
月音が訝しげにハルキを見つめたそのときだった。
「いや……なんでもないよ。でも、あれだね、おいしそうな名前だね。つくね、って」
彼は照れ隠しなのか、少しだけ視線を逸らして笑う。
だが月音は、彼の言葉の裏に何か引っかかるものを感じていた――まるで、ハルキがその名前に何か覚えがあるかのような。
エルストがそんな二人の様子を黙って観察していることに、月音もハルキも気づいていなかった。
「さて、君たち。一人の罪を消化したとはいえ、これで全てが終わったわけではない。ほら、罪人はまだあんなにもたくさん存在している」
彼が指した先には、先ほどの動物の群れ。それに――ナマケモノ、いやハルキに邪魔をされたチャーシュー麵大盛りの罪を持つサモエドも大人しくエルストのわきにお座りをしている。
「あんなに、いるけど……」
月音は自分のおなかを押さえてみる。
罪、は月音のいた世界の食べ物の形をしている。少なくとも、月音にはそう見える。味も、舌触りも、すべてがその食べ物の通りだ。そして、胃へのたまり具合も見た目の食べ物の通りだ。
「あのオムライス、結構量が多かったから、もうお腹いっぱいだよぉ……」
情けない声を出す月音に、エルストはやれやれとため息をつく。
「胃腸が弱いな、天野月音。これでは胃を鍛えさせなければならないな」
「異世界まで来てフードファイターになれっていうの!?」
エルストは脇にいるサモエドの背中を撫でると、どこからか大型犬用の首輪とリードを取り出す。慣れた手つきで首輪をつけている間も、サモエドは大人しくされるがままになっている。
「かわいい……」
ついつい心の声が漏れてしまう。
「どのみち、一度に消化できる罪には限界がある。今日は近くの街で休むことにしよう。
この罪人の罪の浄化は明日に延期だ」
そう言うと、エルストははサモエドのリードを引きながら歩きだした。
「あの!」
月音とエルストの会話を聞いていたハルキが大きな声をあげる。
「罪、罪人ってさっきから話しているけど――
僕も、何か罪を犯したん、でしょうか」
困惑したようなハルキの表情。
そうだ。動物になっていた人間は、罪人。
ということは、この優しそうな青年も、何らかの罪を犯しているのだ。
月音は不安になって、エルストとハルキの交互に視線を向ける。
エルストは一瞬立ち止まり、サモエドのリードを握る手を緩めた。
振り返る彼の顔には、いつものような穏やかな笑み――それでいて、底の見えない冷たさが宿っていた。
「お前は、
その言葉に、月音とハルキは硬直してしまう。
――人殺し。
確かに、この異世界の導き手はそう言った。
びくり、と月音の体が震える。隣にいる男に、怯えた視線を向ける。
ハルキも自分自身の手を見ながら、呆然としている。
「僕が……人殺し?」
そう小さくつぶやいた声が、月音の耳まで届いた。
「さあ、街へ行くぞ。月音、ハルキ、付いて来い」
そんな二人の様子など気にせずに、エルストはサモエドを連れ進んでいる。
ここで立ち止まっていても、仕方がない。
何も寄る辺のない異世界で、月音とハルキは促されるままに導き手に導かれて進んでいくしかなかった。