薄暗い部屋の中、月音はサモエドの柔らかい毛を撫でながら、疲れた顔でぼんやりしていた。
「もう、どうなっちゃうんだろ、これから……」
ため息混じりの呟きがこぼれる。
罪食みの少女、罪を持つ人間が動物になる世界、胡散臭い男エルスト、同じ転生者らしいハルキ。昨日までただ会社で仕事をこなしていた月音には縁のない、あまりにもファンタジー世界すぎる。
せめてこのサモエドだけは癒しだった。
しかし、このサモエドはなぜ私の部屋に来たがったんだろう。メスなのだろうか。
そんなことを考えながら月音の指が耳を撫でると、サモエドが気持ちよさそうに目を細める。この犬も元人間……と思うと、もしオスだったら、なんかイヤだな。
「はあ、そんなこと考えてる場合かもわかんないけど……」
月音の考えを知ってか知らずか、「ばうっ!」とサモエドが小さく吠えた。部屋の中は穏やかだった。
だが、その平穏は一瞬で破られる。
「……何?」
窓の外に奇妙な動きがあった。月音が目を凝らすと、黒い影がスッと横切るのが見えた。それは人間のような形をしているが、異様にぼんやりと輪郭が滲んでいた。
その影が、一瞬のうちに窓を破り、部屋の中へ侵入してきた。
バリン、と窓ガラスが大きな音を立てて割れ、室内にガラス片が散らばる。
「ちょ、何!? なんなの!?」
月音は驚いて後ずさる。影は揺れるように形を変えながら、真っ直ぐに月音へと迫ってきた。
「バウッ!ウウウウ……!!」
サモエドが月音の前に立ちはだかり、低く唸り声を上げる。
その瞬間、影が一気に動き、サモエドに向かって腕のようなものを伸ばした。サモエドが鋭い動きでそれをかわしながら、影の腕に噛みついたかと思うと――
「あっ!」
叫ぶ間もなく、影はサモエドを力強く抱え込み、そのまま窓の外へと飛び去った。
影が一気に窓から飛び去るとき、サモエドの悲痛な遠吠えが夜空に響いた。
月音は窓際に駆け寄るが、影の姿は既に夜空に溶けていた。
「犬……!」
月音は窓枠にしがみつくように手を伸ばしたが、影はすでに夜闇に溶け込んでいた。声を震わせながら、力なく窓枠を叩くしかできなかった。
その時、部屋の扉が勢いよく開け放たれた。
「月音、大丈夫か!」ハルキが駆け込む。
「何があったんだ?」エルストも冷静な声で問いかけてくる。
月音は振り返り、震える声で説明した。
「あの、サモエドが……あの黒い影に……」
エルストが窓際に歩み寄り、外をじっと見つめた。その目はいつも通り冷静だったが、どこか険しさが感じられる。
「……厄介な連中だ」
「厄介な連中?」
月音が問い詰めるが、エルストは答えず、窓の外へと身を乗り出す。
「僕がサモエドを助けてくる。君たちはここで待機していてくれ。」
そう言って飛び出そうとするエルストを、ハルキが慌てて引き止めた。
「おいおい、勝手に一人で行くつもりかよ! 俺も行く!」
「僕一人で十分だ。これは――」
エルストが言いかけた瞬間、月音も勢いよく声を上げた。
「待って、私も行く!こんなところで、知らない世界で一人で待ってるより、一緒に行かせて」
「いや、君たちは戦えないだろう。危険な――」
「だからこそ行くのよ!」
月音がエルストの言葉を遮る。
「また何か変なのが襲ってきたらどうするのよ!?!?」
エルストは一瞬困惑したように口を閉じたが、すぐに溜め息をついて折れた。
「分かった。だが僕の指示に従ってくれ。
……君たちが危険に晒されることだけは避けたい」
「了解! よし、行こう!」
ハルキが笑顔で拳を握る。
月音も決意に満ちた顔で頷く。エルストが窓の外を見据えながら小さく呟いた。
「……面倒なことにならなければいいが」
そうつぶやいたときにエルストの表情が、やけに苦々しげだった。