夜の帳が宿を包み込む頃、三人はようやく部屋に戻った。
サモエドの救出作戦が失敗に終わった罪悪感と、あの謎めいた女・オルテリアに対する疑念が、月音の胸を重く押しつぶしていた。
エルストは部屋の片隅で表情を殺し、足を組んで椅子に腰かけている。いつもうすら笑いを浮かべている彼の無表情がどこか薄気味悪く思えたのは、月音の心がざわついているせいだろうか。
ハルキは布団に倒れ込んで寝息を立てている。その無防備な姿を一瞥した後、月音は意を決してエルストに向き直る。
「ねぇ、エルスト……オルテリアって、何者なの?」
月音の声には緊張が滲んでいた。あの冷徹な女性の瞳と言葉が、どうしても脳裏から離れない。
エルストは部屋の片隅で腰掛けたまま、いつもの柔らかい笑みを浮かべた。彼は一瞬目を閉じると、静かに言葉を紡ぎ始める。
「オルテリア……彼女は、この世界を混乱に陥れようとしている、罪深い存在だよ」
「混乱に陥れた……?」
月音は意外な答えに驚き、目を見開いた。
「そう。彼女は人々の罪を浄化しようとはせず、むしろそれを利用して力を手に入れ、この世界を支配しようとしているんだ。自分の理想と称してね」
エルストの穏やかな声には、いつもとは違う険しさが混じっていた。
「理想って……どういうこと?」
「彼女の『理想』というのは、罪を受け入れてそれを力に変えること。でも、それは自分の欲望を正当化しているだけさ。彼女が言う『向き合う』なんて言葉は、結局、罪を正当化するための口実に過ぎない」
月音はエルストの言葉に耳を傾けながらも、どこか釈然としない感覚を覚えていた。だが、それをどう言葉にすればいいのか分からない。
「……そんなこと、言ってなかったけどなあ」
月音が問いかけると、エルストは表情を変えずに、
「そりゃあ、そんなことを君に言う必要はないからね。僕は彼女とは古い知り合いなんだ」
エルストは遠いところを見るように瞳を細める。何か言いたくなっても、月音は口をはさむことが出来なかった。何か――月音には聞けない因縁がありそうな、そんな空気を感じた。
「月音。彼女は君の罪食みの力を利用しようとしているんだ」
「……利用?」
「そう。彼女は人々の弱みにつけ込み、自分に従わせようとしている。そして君の力を使って自分の欲望をかなえようとしているんだ、世界征服というね」
エルストの言葉に、月音の胸はぷっと吹き出した。
世界征服、だなんて。
今どき、子供向けのアニメでもなかなかお目にかからない言葉だ。
「そう笑っているがいいよ。君の世界とここアニモラは違うんだ。
彼女は――オルテリアは本気なんだ」
彼は真剣なまなざしで語る。
そうだ、ここはいかにもな異世界ファンタジーなんだ。
勇者がいて、魔王がいそうな、異世界ファンタジー。世界征服を企む悪者がいても仕方ない。
「エルスト。あのサモエドは……どうなっているのかな」
「さあ。しかし、彼女は簡単に殺生をするような人間ではない。その点は安心していいだろう。でも、何をされているかは――わからないな」
エルストの言葉に、月音はぞっとふるえてしまう。
もふもふ……。
「今日は休もう。君も部屋に戻りなさい。
サモエドのことは大丈夫、僕が何とかするから」
「うん……」
月音は小さくうなずくと、エルストとハルキの部屋の扉に手をかけた。
「ねえ、エルスト」
「どうした?」
エルストの顔を見ながら、月音は何が聞きたかったのか自分でもわからずに困ってしまった。
異世界に召喚され、彼しか頼る人がいない。その状況が、急に一気に、不安になった。
寄る辺のない世界で、不確かな胡散臭い男のいうことを聞き、私はいったいどうなってしまうんだろう。
頼りにしたいもう一人の転生者と言えば、いびきまでかいてのんきに眠っている。
「ううん、なんでもない。じゃあ、おやすみ」
そういうと、月音は自分の部屋へと戻っていった。