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 朝の光が窓から差し込む頃、宿屋の小さな食堂には木製のテーブルと椅子が整然と並んでいた。月音はその片隅に座り、目の前の光景をぼんやりと眺めていた。


「うん、このパン、なかなかイケるじゃん!」

 ハルキが焼きたてのパンを頬張りながら言う。その隣ではエルストがゆっくりとスープを口に運んでいた。


 テーブルには地元特産らしい厚切りの黒パンや、濃厚そうなスープ、野菜の漬物が並べられている――らしい。しかし、月音はただそれを眺めるだけだった。


「月音、ごめんなオレらだけ食べちゃって」


 ハルキが不思議そうに尋ねる。


「大丈夫。ハルキは悪くないし」


 月音は曖昧に微笑みながら答えたが、内心では胃がぎゅっと締め付けられるような感覚を覚えていた。月音の目には、ハルキたちが口に運んでいるものが、灰色の粘土の塊に、タールのような黒々とした液体、何かの動物の排泄物――にしか見えない。

 見ているだけでげんなりしてしまう。


 この世界の食べ物が口にできない、罪食みの少女はそういうものらしい。

 はああ、と大きくため息をついてしまう。と、同時にぐうう、とお腹が鳴る。

 ハルキが気にするそぶりを見せたが、エルストが何事もないかのように話題を変えた。


「さあ、朝食を済ませたら出かけようか。」


「出かけるって……」月音はふと顔を上げた。「サモエドを助けに行くの?」


 その問いに、エルストは穏やかに微笑んで首を振った。


「いや、月音。君の食事だよ」


「……え?」


 不意をつかれた月音は、ぽかんとした表情を浮かべる。彼の言葉の意味がすぐには理解できなかった。


「罪を食べる時間だ」エルストは椅子を引いて立ち上がりながら言った。「罪食みの少女、お前の使命だろう」


 その言葉に、月音の胸に軽い抵抗感がよぎった。しかし、自分がこの世界に召喚された理由を思い出し、静かに頷いた。


「……わかった」


 ハルキがその様子を横目で見ながらも、特に口を挟まず黙っていた。エルストが先頭に立って宿屋を出ていき、月音とハルキもそれに続く。


 冷たい朝の空気が肌を刺すような感覚を与え、少しだけ眠気を吹き飛ばした。これから何が待っているのか、不安を抱えながらも、月音はエルストの背中を見つめて歩き出した。



 ***



 宿を出た月音たちは、エルストの案内で『ウィスト』の街の中心部に向かった。立派な石畳の通りを抜け、大きな門構えの屋敷にたどり着く。その場所は、この街の町長の家だった。


「ここで何をするの?」


 月音はエルストを見上げながら尋ねた。


「罪人がいる。それ以外ないだろう」


 冷たい口調でエルスト扉をノックしながら答える。


 扉が開くと、中から品の良さそうな中年の男性が現れた。彼の目元には深い疲れの色が滲んでいる。


「お待ちしておりました、エルスト様……どうか娘をお救いください」


 町長は頭を下げながら、切実な声で言った。


「任せてください。これが例の、罪食みの少女です」エルストが月音を恭しく示す。


「おお、この少女が……。なんど……」


 町長は、月音の猫耳を胡散臭そうに眺める。思わず月音は手で猫耳を隠してしまう。


「さあ、行こう」


 エルストがそう促すと、町長は屋敷の中へと彼らを案内した。

 大きな応接室で話を聞くと、町長の娘・フィオナは数日前に突然猫の姿になってしまったという。


「お願いします。娘がどんな罪を犯してしまったかはわかりません。しかし、私にとっては大事な娘なんです。罪食みの少女様、どうか娘の罪を喰らってください」


 町長が月音に深々と頭を下げる。

 月音とハルキは大の大人が頭を下げる姿に慌てて「そんな、頭をあげて下さい」と声をかける。

 エルストは落ち着いた様子で、


「罪は本人が意識していなくても蓄積されることがある」


 そう言って、部屋の隅で丸くなっている白猫を指差した。


「あれがフィオナだ。」


 月音とハルキは、その猫を見つめた。ふわふわの毛並みを持つ白い猫だったが、どこか元気がなく、怯えたように縮こまっている。


「これから彼女の罪を具現化する。そろそろ君たちにもそのやり方を覚えてもらおう。いつまでも僕がやるのも、疲れる」


「何よその言い方は……」


 月音は呆れて言いながらも、確かに昨日はサモエドのときもハルキの時も、エルストの呪文で罪の具現化が行われた。自分で呪文を覚えれば、エルストがいなくても食事ができるようになる。


「疲れるかはともかく、たしかに呪文、覚えたい」


「オレも覚えるのか?」


 ハルキはきょとんとしているが、エルストは意に介した様子もない。

 エルストは軽く息を吐くと、月音とハルキを真剣な目で見た。


「いいかい?罪を具現化するには、その存在を『形』として認識する必要があるんだ。ただ目の前にあるモノを見るのではなく、その奥に潜むものを心で捉えるんだよ」


「……心で?」


 月音は眉を寄せて、エルストの言葉を反芻した。


「そう。呪文自体は簡単だ。けれど、具現化に必要なのは『罪を見抜く力』だ。月音、君ならそれができるはずだよ。君の力を信じてごらん」


 エルストは、月音の前に椅子を引き寄せて座らせた。彼の手の動きはゆったりしているが、その目は鋭く集中している。


「さあ、これから僕が教える言葉を繰り返してみて。まずは、深く息を吸って……」


 月音は言われるまま、緊張を抑えるように深呼吸をした。


「心の中でこう唱えるんだ。『罪の奥にある形を明らかにせよ』。それが第一歩だ。そして次に、『その形を現せ』と外に向かって唱える。力を解き放つイメージを持つんだ」


「……そんなに簡単にいくの?」


 月音は半信半疑でエルストを見上げた。


「やってみれば分かるよ。大切なのは、自分の中で『罪』を信じることだ。たとえそれがどんな形でも、それが真実だと認める勇気が必要なんだ」


 月音は唇を引き結び、再び深呼吸をして目を閉じた。心の中で、エルストの教えをなぞる。


「罪の奥にある形を……明らかにせよ……」


 静かな室内に、月音の囁きが響いた。だが、目の前に変化は起こらない。


「全然、できないよ!」月音は両手で顔を覆い、声を荒げた。「どうしてこんなの、できるの?」


「焦るな、月音。罪を見つめるのは簡単なことじゃない。それに、お前にはまだ罪を『食べる』ことに慣れる時間が必要だろう」


 エルストは口元に笑みを浮かべながら言った。


「じゃあ、オレもやってみるか」隣で見守っていたハルキが手を挙げる。


「ああ。君の場合は少し別の方法で試そうか」


 エルストはハルキの肩に手を置き、穏やかに導いた。


「ハルキ、君は明るく純粋な性格だ。その強みを活かして、もっと直感的にやってみるといい。呪文に頼りすぎるのではなく、自分の感覚で『ここだ』と思う部分に力を注いでみるんだ」


「なんか分かったような気がする……!」ハルキは大きく息を吸い、手を前に突き出して呪文を唱えた。


 すると、空間が微かに揺らぎ始めた。次第に光が集まり、眩い輝きが部屋を包み込む。


「えっ!?なんでハルキができるの!」


 月音が驚きの声を上げる。

 光の中から現れたのは――罪が具現化した姿。

 その正体は……ハムチーズホットサンドだった。


「え、これが罪?」


 ハルキが呆然とつぶやく。

 そういえば、ハルキは昨日罪の具現化する様子を見ていなかった。


「ハルキにはあれが何に見えているの?」


「えっ、なんか、白いモヤモヤに見えるけど……月音には違うの?」


「えっと……ほかほかの、ハムチーズホットサンドに見えてる」


「ええっ!?」


「これが月音の罪食みの少女の能力なのさ。罪人の罪を具現化し、食らうことが出来る。

 さあ月音、フィオナの罪を喰らうんだ」


 エルストに促され、月音は宙に浮かぶほっとサンドを手に取り――かじりつく。

 美味しい。

 パンの内側にはバターが塗られている。バターとチーズの濃厚な味わいと、ハムのしょっぱさが口の中に広がっていく。

 月音は夢中になってハムチーズホットサンドを食べきってしまう。


 ――と、白猫が光に包まれ、徐々にその光の中の陰が人間の形に変化していく。


「本当に……ありがとうございました……!」


 フィオナが目を覚まし、町長は涙を流しながら感謝の言葉を述べた。


 フィオナは少しぼんやりした様子で、月音たちに向かって深く頭を下げた。


「ありがとうございます。私は……自分が罪人だなんて思ってもいませんでした。でも、何か悪いことをしていたんでしょうね……」


 月音はフィオナの言葉に、複雑な気持ちを抱いた。

 罪とは何か。それを背負うということはどういう意味なのか。まだ答えは見えないけれど、少しずつ前に進んでいるような気がした。


「フィオナさん……本当に罪が何か、わからないんですか?」


 月音がそう尋ねると、フィオナはにっこりとほほ笑んだ。

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