ハルキの声は静かな風に溶けるように響いた。呪文は短く、耳に心地よいリズムを持っている。しかし、月音はハルキを止めるように手を伸ばした。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 本当にやるの?」
月音は目の前の小さなウサギを見つめながら、戸惑いを隠せなかった。愛らしいウサギが罪を具現化し、何か別のものに変わる瞬間を想像するだけで、胸の奥がざわざわと落ち着かない。
「やるしかないだろ。オレはこの世界の食べ物が食べられるけど……。月音は罪を食べるしか、ないんだろ」
「それは……でも……」
ハルキは月音に少し強気な視線を送りながら、ウサギを指差した。
「腹が減っては戦は出来ぬ。それに、このウサギの罪じゃなく他の動物にするって手もあるけど、ほかの動物はアレだぞ」
そう言ってハルキが指さした先には、動物たちが何匹もたむろしていた。ライオン、ヒョウ、ゴリラ、ゾウ……大きくて、危なそうな動物ばかりだ。昨日見たときは、もっと大人しそうな生き物もいたはずなのに。
「月音が気にすることじゃないよ。月音は自分の力を使って、やるべきことをやるだけなんだから」
ハルキの言うことは正しい。アニモラで生きるために、月音は自分の力を受け入れ、役割を果たさなければならない。しかし、目の前の小さな命が何かを背負っていると考えると、それを暴くことに恐れを感じずにはいられなかった。
「……わかった。でも、もし何かおかしなことが起きたら、すぐにやめてね!」
「ハルキ、またやってみよう。呪文で罪を具現化して……」
ハルキは頷くと、手のひらをかざしながら集中を始めた。エルストに教わった呪文が低く響く。呪文が彼の口から流れ出ると、空気がわずかに震え、ウサギの体が淡い光に包まれる。そして――
そして、そこに現れたのは――
「……回鍋肉だ」
月音は目を見開き、信じられない思いで呟いた。罪が具現化したその姿は、湯気を立てる美味しそうな回鍋肉だった。豚肉とキャベツに甘辛な味噌だれがツヤツヤと絡まり、食欲をそそる香りがあたりに漂いだす。皿にわきに箸はある、が白米などの主食はないようだ。
「おっ、今度は回鍋肉なのか」
ハルキには、今回も罪の具現化はただの靄のようにしか見えていないようだ。
月音の胃が再び大きく鳴り響いた。ぐうぅ~~~……
「やっぱり腹が減ってたんじゃないか。食べろよ」
「う、うん……」
月音は回鍋肉をじっと見つめながら、無意識に唾を飲み込んだ。
「大丈夫、何かあればオレもいるから」
ハルキのその軽い一言に、月音は戸惑いながらも頷いた。ゆっくりと手を伸ばし、回鍋肉を手に取る。
一口食べると、頭がしびれるような脂のうまみが広がり、夢中になってかき込んでしまう。
「ううう……なんで白米がないの。回鍋肉に白米がないなんて、なんてひどいの」
月音は思わず声を漏らした。
こんなに美味しいものを罪として食べることになるなんて、どこか皮肉な話だと思ったが、口に運ぶたびに身体が軽くなっていくような不思議な感覚を覚えた。
そして――
回鍋肉を食べ終えた瞬間、月音の目の前でウサギが光に包まれ、人間の姿に戻っていった。
「……えっ!」
そこに立っていたのは、年のころは10歳前後の、小柄な女の子だった。金色の髪と青い瞳を持つその少女は、怯えたように震えている。
こんな幼い子が――罪人?
「……ここはどこ?」
金色の髪の少女は、自分の手足を見つめ、震える声で問いかけた。その声はか細く、どこか不安定で、彼女の混乱をそのまま映しているようだった。
月音は咄嗟に少女に駆け寄り、肩に手を置いた。
「大丈夫、怖がらなくていいからね。名前は? どこから来たか覚えてる?」
少女はしばらく目を見開いたまま動かなかったが、やがて小さく頭を横に振った。
「……覚えてない。ただ、あたし……誰かが、あたしのこと、『罪人』だって……」
その言葉を聞いた瞬間、月音の胸に鈍い痛みが走る。自分が食べた回鍋肉――つまり、この少女の罪が何だったのかはまだ分からない。ただ、この子がずっと罪の影に囚われていたのだと思うと、いたたまれない気持ちになった。
「もう大丈夫だよ。罪はもうないから……ね?」
月音は優しく微笑みかけ、彼女の髪をそっと撫でた。その瞬間、少女の表情が少しだけ柔らかくなった。
「……ありがとう、お姉ちゃん。」
その声に、月音の心が少し救われた気がした。
しかし、こんな幼い少女を人間に戻してしまって――どうしよう。白いウサギのままであれば、食事は草原にそれほど無限に存在する。しかし、月音もハルキもこのアニモラでは無一文の、ただの異邦人だ。記憶のない少女に、何をどうしてあげればいいかわからない。
「この子をどうにかしないと……。悔しいけど、エルストを頼るしかない、のかな」
月音がそうつぶやくと、ハルキも神妙な顔をしている。
「お姉ちゃん……お兄ちゃん……?」
どうしていいかわからずに立ちすくんでいると、突然遠くから「ばうっ!ばうっ!!」と聞き覚えのある犬の鳴き声がした。
「サモエド!」
「もふもふ!」