「ちょ、父様っ!?」
「よがっだぁ……! げいめいがぁ! じ、じんだがもっでぇえええ!」
「そんな、縁起でもない! ほら、たぬきもびっくりして尻尾を逆立てているわ。見ない顔だけど、父様の新しいご友人かしら?」
文仲は娘の言葉に必死にうなずくけれど、泣き崩れた顔面はなかなか戻らない。
空腹でまともに思考も働かない慧芽が、感情が爆発してしまったらしい父をどうすべきか辟易してると、襟巻きになっていたたぬきが、ぽむぽむと文仲の顔面を尻尾ではたいた。
小さき友人からの主張は、時に文仲にとって娘の言葉よりも大切だ。今もそのようで、「くぅん」と鳴いたたぬきの一声で、文仲の滝のような涙はだんだんと水量を減らしていった。
「うん、うん、そうだね、二日も寝てたんだもんね。慧芽、体調はどうだい? ご飯は食べられそうかい?」
「ちょっと頭痛がするくらいで、他は大丈夫よ。お腹がすいているから、今から厨に行くところだったのだけれど……私、二日も眠っていたの?」
ぐずぐずと鼻をならす文仲が身体を気遣ってくれるけれど、慧芽はその中で聞き捨てならない言葉を拾ってしまった。
すっきりとした目覚めだとは思ったけれど、まさか二日も眠っていたなんて。そう言われてみればこの異様な空腹感にも納得はできるけれど、でも、どうして。
「どうして私、二日も眠ってたのかしら」
眠りに落ちる直前だけがどうしても朧気で、霞がかってしまっている。
思い出そうとすれば頭痛が悪化しそう。眉をきゅっと寄せて渋い顔をしていると、文仲がおっとりとした声音で慧芽をたしなめた。
「そのことはあとで話そう。今は先に、身体に栄養を補充してあげるべきじゃないかい」
「……そうね。身体を先に万全にしないとだわ」
うながされて慧芽が同意すると、文仲が満面の笑顔を浮かべる。そして堂々とした出で立ちで胸をはった。
「遊々が今、買い物に行っているからね。でも一応、慧芽が起きた時のために水菓子をね、いくつか用意しておいてもらっていたんだ。持って行ってあげるよ」
「そんな、いいわ。父様にそんなことさせなくても、私が厨に行くから」
「いーの、いーの。父の言葉を拒否するのかね?」
「もう……。そこまで言うのなら、お願いするわ」
ここ数年で稀に見る父の強い押しに、慧芽のほうが折れた。仕方なく踵を返して自室に戻ろうとすると、足もとを温かくてふわふわしたものがさわりとなでていく。
「じゃあ君、ちゃんと慧芽を部屋まで送り届けてあげてね。寝台まで案内するのが君の役目だ」
文仲は真顔でたぬきと視線を合わせると、そんなことをたぬきに言い聞かせた。このたぬきはとても利口なのか、文仲の言葉を理解しているかのように「まかせてよ」と胸をはる。
娘の慧芽から見ても、昔から文仲は不思議な人だった。日頃からこうして、獣と意思疎通しているかのような素振りを見せるのだから。
そんな文仲を見て育ってきた慧芽だからこそ、自分も同じように獣と話ができると疑わずにいた子供時代もあった。けれどいくら人間の言葉を覚えたところで、獣の言葉は理解できない。その幻想は早々に打ち砕け、結果、ならばどのように獣の心を知ることができるのかと動物にまつわる学問を修め始めたのが、今の慧芽を形作った核のようなものだった。
しばらく実家から離れていたせいか、父のこの姿を久しぶりに見た慧芽は、今では文仲のこの特技が特別の中の特別であることをすっかり理解していた。
(獣とは話せなかったけれど、姫様と話せるのは、それだけでも奇跡のようなものなのよね)
ぽてぽてと歩くたぬきの後ろをついて行きながら、慧芽は言葉が通じる存在のありがたみを改めて痛感する。たぬきに服を着せるよりは、竜の姫君に衣を着させるほうがはるかに簡単なのは間違いない。
「……案外、たぬきのほうが簡単なのかしら」
のんびり歩くたぬきを見ていれば、たぬきは竜の姫君のように急に大きくなったり、暴れたりしないような気もするので、衣をまとわせるのは簡単そうだ。
ちょっとあとでたぬき用の衣を縫ってみようかと慧芽は思案しながら、たぬきの案内で自室へと戻ったのだった。
文仲が器に山と盛りつけてきたのは、宝石のようにつやつやとする葡萄だった。慧芽は驚きながらもその一つに手をのばす。
「この時期に葡萄が手に入るなんて珍しいわね。まだ三月は先でしょうに」
「南で早くに実をつけたのをいただいたんだ。慧芽が倒れて、主上がお詫びにって下賜してくださったんだよ」
せっかくの葡萄を自分は食べずに、文仲はたぬきへと与えてやる。たぬきは葡萄がおいしいのか上機嫌で葡萄を食べては、「もっとちょうだい」と文仲に可愛くおねだりしている。
そんな様子を微笑ましく見ていた慧芽だけれど、文仲の言葉を脳裏で反芻した瞬間、慧芽は口に入れたものを吹き出しそうになった。皇帝陛下から賜った葡萄? むりやり言葉と葡萄を飲み込んだせいで咳き込んでしまう。
「しゅ、じょうがっ?」
「大丈夫かい?」
「くぅん?」
文仲が心配そうに水差しを差しだせば、たぬきも尻尾を振って慧芽を見上げてくる。
素直に水をいただいてひと息ついた慧芽は、ちょうど頃合いかと本題へと切り出すことにした。
「父様、私、離宮にいたはずよね。どうしてここに帰って来ているの? しかも二日も眠っていたなんて。ただごとでないのは分かるのに、眠る直前のことが思いだせないのよ」
切り出した慧芽に、文仲はたぬきに葡萄をやる手を止めて、ぱちくりと瞬く。
「ふぅむ。お医者が言っていたけど、本当に記憶が抜け落ちてるみたいだね。直前の記憶だけで、離宮にいたことは覚えてるんだよね?」
「ええ。主上から勅命を受けて、姫様のお世話をしていたはずなのだけれど」
眉をしかめて記憶を呼び起こそうとする慧芽に、文仲はちょっと困ったように笑いかけた。
「思いだせないものは思いださないほうがいいというのが、私の持論だけどもね……慧芽の場合は思いだしたほうが安心だ」
「どういうこと?」
「そうだねぇ。何があったか教えるのは簡単だけど、無理に思いだすよりは、丁寧に思い起こすほうがいいと、お医者も仰ってたからね。順に思いだしていこうか」
文仲はそう言うと、慧芽が離宮に行ってからのことを順々に聞き出し始める。
姫君が竜であったこと、これは話してもいいことなのだろうかと戸惑う慧芽に先んじて、文仲は伝家の宝刀を抜いてみせた。
「離宮の姫君が竜だってことは知っているからね。遠慮なく話しなさい」
慧芽はびっくりして、文仲の顔をまじまじと見る。
「父様、知っていたの?」
「むしろ知らなきゃ自分の娘を推したりしないよ」
「…………は?」
にこにこと笑いながらのたまった文仲に、慧芽の目が据わった。